Up 「不立文字」 作成: 2018-03-21
更新: 2018-04-15


    仏教の「色即是空空即是色」は,空観に退化し,否定論法 (「破邪顕正」) に退化する。
    禅の「不立文字」「平常心」は,この退化の系列に連なるものである。


    否定論法の理屈は,「ネガを以てポジを顕す」である。
    「ネガを除いた残りがポジ」あるいは「ネガの反転がポジ」というわけである。

    「ネガを以てポジを顕す」は,妄想である。
    これが間違いであることは,自明である。
    では,否定論法の者は,なぜこの妄想を保っていられるのか?
    それは,「ネガ」の具体的リストに,思考停止するからである。
    即ち,「どれだけの邪を破ったら正が顕れるのか?」を,問うまいとするのである。 ──実際,問いを立てることは,妄想を保てなくなることである。


    否定論者は,否定する相手があってこその存在である。
    その相手は,肯定的言辞を用いる者である。
    それは,<生産者>である。
    否定論者は,<生産者>に寄生して生きる存在である。

    否定論者は進化せず,生産者は進化する。
    否定論者は生産者から引き離されるばかりとなる。
    そして,時代遅れの存在──遠い昔の存在──になる。

    これは,「否定論者は,自分の時代遅れを意識できない」を意味する。
    よって笑止千万の「破邪顕正」は,世につねに満載である。


    禅は,ことばを却けて,ことばに騙される。
    ことばを却ける者は,自分に都合よくことばを使う者である。
    自分に都合よくことばを使う者は,真っ先にことばに騙される者である。
    かくして,「不立文字」を唱えるというわけである。

    「不立文字」は,「立文字」に対する否定である。
    これは,構えに対する否定である。
    構えを否定すれば,内容に踏み込まずに済む。
    よってこの否定は,ラクな否定である。
    この意味で,「不立文字」は消極的否定論法ということになる。
    「破邪顕正」を更に退化させたのが,「不立文字」である。

      「不立文字」を立てる否定は,ラクな否定であって,「根柢的な否定」ではない。 ──ひとはラクな論法を「根柢的な論法」と取り違えるものなので,この点を強調しておく。