Up 至道無難 唯嫌揀択 纔有言語 是揀択 作成: 2018-03-22
更新: 2018-03-22


      『趙州録』
    問、 至道無難、唯嫌揀択、是時人窠窟。
    師云、曾有問我、直得五年 分疎不得。

    「<至道は難しくない;選択がだめ〉は、ひとを何もできなくすることですよ」
    「前に問うてきたことがあったな、それから五年だが,弁明できんわ」


    師示衆云、
       至道無難、唯嫌揀択。纔有言語、是揀択。
       老僧 却 不在明白裏。
       是你 向什麽処 見祖師。
    問、 和尚既不在明白裏、護惜什麽処。
    師云、我亦不知。
    学云、和尚既自不知、為什麽道、不在明白裏。
    師云、問事即得、礼拝退。

    「至道無難 唯嫌揀択,纔[わず]かに言語有れば是れ揀択,だ。
     わしは<明白>のレベルにはおらんぞ。
     君らは,どこに祖師を見る?」
    「和尚のレベルだと,どこを大事にするんです?」
    「わしも知らん。」
    「知らなくて、なんで、<明白>のレベルにないなんて’言うんです?」
    「わかったから、礼拝して帰りなさい。」


    問、 至道無難、唯嫌揀択。如何得不揀択。
    師云、天上天下、唯我独尊。
    云、 此猶是揀択。
    師云、田庫奴、什麽処是揀択。

    「<至道は難しくない;選択がだめ〉といいますが,どうしたら<不選択>を得られますか?」
    「<天上天下、唯我独尊>」
    「それだって<選択>でしょう。」
    「田舎者め,どこが<選択>だ!」


    修行僧集団は,もともと優秀な者の集まりだから,「至道無難 唯嫌揀択 纔有言語 是揀択」は変だなとは,みな思っている。
    こういう場合は,ボケとツッコミで遊ぶことになる。
    上のようにである。
    趙州は,「至道」なんてものは無いと達観した余裕のある者なので,ボケ役を引き受けてやるのである。

    「禅」に思い入れをする者は,この手の話をたいてい「師が未熟な者をたしなめる・あしらう」のように解説するが,間違いである。