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『趙州録』
問、 至道無難、唯嫌揀択、是時人窠窟。
師云、曾有問我、直得五年 分疎不得。
「<至道は難しくない;選択がだめ〉は、ひとを何もできなくすることですよ」
「前に問うてきたことがあったな、それから五年だが,弁明できんわ」
師示衆云、
至道無難、唯嫌揀択。纔有言語、是揀択。
老僧 却 不在明白裏。
是你 向什麽処 見祖師。
問、 和尚既不在明白裏、護惜什麽処。
師云、我亦不知。
学云、和尚既自不知、為什麽道、不在明白裏。
師云、問事即得、礼拝退。
「至道無難 唯嫌揀択,纔[わず]かに言語有れば是れ揀択,だ。
わしは<明白>のレベルにはおらんぞ。
君らは,どこに祖師を見る?」
「和尚のレベルだと,どこを大事にするんです?」
「わしも知らん。」
「知らなくて、なんで、<明白>のレベルにないなんて’言うんです?」
「わかったから、礼拝して帰りなさい。」
問、 至道無難、唯嫌揀択。如何得不揀択。
師云、天上天下、唯我独尊。
云、 此猶是揀択。
師云、田庫奴、什麽処是揀択。
「<至道は難しくない;選択がだめ〉といいますが,どうしたら<不選択>を得られますか?」
「<天上天下、唯我独尊>」
「それだって<選択>でしょう。」
「田舎者め,どこが<選択>だ!」
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修行僧集団は,もともと優秀な者の集まりだから,「至道無難 唯嫌揀択 纔有言語 是揀択」は変だなとは,みな思っている。
こういう場合は,ボケとツッコミで遊ぶことになる。
上のようにである。
趙州は,「至道」なんてものは無いと達観した余裕のある者なので,ボケ役を引き受けてやるのである。
「禅」に思い入れをする者は,この手の話をたいてい「師が未熟な者をたしなめる・あしらう」のように解説するが,間違いである。
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