Up 知的退行 作成: 2018-03-28
更新: 2018-03-30


    科学の時代に,宗教はなぜ生き残るのか。
    宗教に,科学に時代に見合う内容があるからではない。
    単に,人間は変わるものではないからである。

    進化は,「階層」で説明される。
    旧いものが新しいものに取って替わられるのではなく,旧いものの上に新しいものが積まれるのである。
    「延髄-小脳-大脳」の脳モデルと同じである。

    強固なのは,旧いものの方であって,新しいものの方ではない。
    年期の差が圧倒的だからである。
    新しい層は,ちょっとしたきっかけで,消し飛んでしまう。
    そして,旧い層が表に出てくる。

    ヒト Homo は,百万年以上の時間を,自然を畏怖して生きてきた。
    ひとは,神を立てて手を合わせるのが,居心地がよい。
    そんなカラダをつくってきたからである。
    対して,科学はひとにとってひどく居心地の悪いものである。
    宗教は,このダイナミクスによって,科学の時代にも生き残る。


    生活はめんどうなことが多い。
    原始に戻ってゆったりしたいと思う。
    その「原始」は,都合よく想像された「原始」である。
    ひとは,このような退行欲求をもつ。

    仕事が分析三昧だった者は,超科学の趣きの思想に退行する。
    「数多くのインテリが宗教の門を敲く」は,このようなことである。

    なぜ宗教か。
    インテリは,退行趣味においてもインテリ趣味だからである。
    彼らには,宗教の胡散臭さが,インテリ臭に感じられるのである。


    しかし,退行がいかにしぜんなものであっても,科学の時代には退行は抵抗がもたれる。
    このとき,知的に見える宗教があったら,都合がよい。
    そして,禅がピッタリのものになってくれるというわけである。

    禅は,彼らを呼び込む。
    「公案」とか「座禅」とかの意味不明が,彼らを呼び込むのである。
    インテリは,意味不明に対するとこれを意味深に受け取る者だからである。

    禅とは,<思わせぶり>の物言いの開発のことである。
    禅がインテリを呼び込むのは,禅に奥深い何かがあるからではない。
    単に,意味不明を売り物にするものに引っかかりやすいのが,インテリだからである。
    翻って,禅の大衆化は,大衆のインテリ化を要する。
    そして,「大衆のインテリ化」が実現されるようになってきたのが,今日というわけである。
    ──かくして,科学の時代の仏教は,葬式仏教と,観光仏教と,禅の三つである。