Up | 木の見方の基本の基本 | 作成: 2025-03-27 更新: 2025-03-28 |
見方を持たない「見る」は,<目に光が届いているがその後が無い>の状態である。 ひとの「木を見る」は,これである。 実際ひとは,いま色々な木を見ていることを知らない。 ひとにとって木は, 「木」なのである。 木の図鑑を見ると,木には色々木があることを知る。 そして,図鑑が示す木の色々が<見方>になって,木の色々が見えるようになる。 しかし,この「木を色々な木として見る」は,木とはどんなものかを見てはいない。 木とはどんなものかを見る見方は,木を色々な木として見る見方とは,次元の異なるものなのである。 そしてその次元は,高次元というのではなくて,低次元である。 ひとは,低次元が苦手である。 言い換えると,基本が苦手である。 例えば,分数のかけ算は小学生ができることになっているが,「数とは何か」「かけ算とは何か」の問いには,大学の数学の教員も満足に答えられない。 実際,物事は,基本になるほど難しくなる。 そして基本はやり過ごせるので,ひとは基本をやり過ごすことを生き方の流儀にしていく。 「大人」は,基本をやり過ごす生き方を指すことばである。 子どものときは,基本的な問いを立てたことがあった。 しかし,そのような問いはやり過ごすべきだということを,空気で読むことになる。 そして問うことをやめ,忘却するのである。 で,ここに「木の低次元な見方」というわけである。 先ず,「生き物の低次元な見方」から入る。 生き物には,単細胞のものと多細胞のものがある。 細胞は,それ自体が生き物である。 多細胞の生き物は,細胞という生き物 (蟲) のコミュニティーである。 ひとは,自分を一個の生き物と思っているが,自分は蟲の集まりである。
対話生成AI なんかは,既に「自己意識 (自我)」をもっていることになる。 言うまでも無く,死んであの世に往く魂なんてものも無い。 ひとが1個の生き物と思っているものは,蟲の集まりであり,その結託の効果である。 この認識が出発点。 さて,アリ塚を1個の生き物と見る者は,いない。 生き物はアリで,アリ塚はアリの巣である。 アリ塚を見るとき,ひとは蟲とその蟲の巣を区別する。 木は,蟲と巣のセットである。 しかしひとは,この見方を知らない。 木を見るとき,ひとは蟲と巣の区別をしない。 全体を1個の生き物と見る。 木は,1個の生き物ではない。 多細胞だから,蟲のコミュニティーである。 その蟲たちは,せっせと巣をつくる。 木として見ているものは,蟲と巣のセットである。 このときの巣は,セルロースとリグニンを材料にしている。 鉄筋がセルロース,コンクリートがリグニンの,鉄筋コンクリートづくりである。 人間に引き寄せれば,木は人間の町のように見るものである。 町は人間の巣である。 人は生きるために,建物や道路をつくる。 木の生き物である細胞 (蟲) たちは,生きるためにこれをする。 それが「根・幹・枝」の格好になるというわけ。 木全体の 町の嵩に比べて住人全体の嵩が桁違いに小さいのと同じである。 かくして,木の低次元の見方は,「蟲たちはこんな巣をつくった!」である。 観賞すべきは,建築の妙である。 人間の町のような木は,人間の町が死ぬように死ぬ。 すなわち,鉄筋コンクリートが災害で破損するか,劣化 (風化・経年疲労) するかで,死ぬ。 鉄筋コンクリート建造物は,いつかダメになる。 そして,ダメになるときが最期である。 修繕がきかない──新しく始める方がはやい──からである。 木は動かない。 木が,蟲とその巣だからである。 巣は動かせない。 人間の町が動かないのと同じである。 「動物」は,動けるために町をつくらないことにした細胞 (蟲) たちの生き方である。 動けるためには,町をつくってはならないのである。 農耕社会の系譜にある現代社会は,木に似ている。 対して,人間が狩猟採集を生業にしていた時代が,動物に似ていることになる。 木の見方には,文明論の含蓄がある。 |