Up はじめに 作成: 2009-03-15
更新: 2009-03-15


    「古典はいつの時代にも新しい。」
    これの意味は,「本質は変わらない」である。
    翻って,「さあ新しい時代だ!」のノリで流行りに乗ってつくったものは,すぐに古臭くなる。

    「法人化」の国立大学は,第2期中期計画を始める年度を迎えることとなり,「アクションプラン」を出し始めてきた。
    文言は,これまでのものと同じ。

    一人ひとりは信じていないことばが,<全員が信じることば>の地位に上がることがある。 そして,ひとはこのことばで自らを閉塞する。
    これも「ことばの独り歩き」の一つである。
    そして「アクションプラン」は,このようなものになっていく。


    教員養成課程の学生が教育実習に行って「授業」を学ぶ場合,熟練した教員の上手な授業を見るよりは,同じ実習生のやる下手な授業を見る方が,学びやすい。
    上手な授業とは,アタリマエのように進行する授業である。実習生はこれを見ても,どこに技術・力量が効いているのかわからない。
    逆に,下手な授業は,ダメなところが見えるので,「なんでこんなにもダメなのか?」「このダメはどこからくるのか?」「何が壊れているからダメになるのか?」と考えが進む。

    大学教育の<アタリマエ>は,そのどこに技術・力量が効いているのかわからない。
    「アクションプラン」は,この<アタリマエ>を旧態として退け,「改革」しようとする。 すなわち,<アタリマエ>と違うことをしようとする。
    この「<アタリマエ>と違うことをする」は,「大学教育を壊す」になる。

    そこで,大学教育を考える大学人に対し,「アクションプラン」は上に述べた「下手な授業」と同じ効用をもつ。
    「アクションプラン」に対しては,ダメをダメと言ってもつまらない。
    「アクションプラン」は,「なんでこんなにもダメなのか?」「このダメはどこからくるのか?」「何が壊れているからダメになるのか?」というふうに考えるとき,大学教育を考える大学人の良い研究材料になる。

    この小論は,以上の認識の立場から,アクションプランの思考類型を概観しようとするものである。