Up 要 旨 作成: 2009-02-09
更新: 2009-02-09


    オーソドックスでこれまでやってきた企業は,市場原理主義の時代をどんなふうにやっていくか?

    企業Aは,ある外部者を,その者の MBA ばりの企業経営の腕を見込んで,経営トップに招いた。 彼は,企業の業務内容を,「時流に合わない」「これでは今後生き残れない」と見る。 そこで,「改革」をやる。
    あなたはこれを「いい話だ」と思う。


    そこで,わかりやすく具体的な例で考えてみる。
    「企業」を,落語協会としよう。
    理事は,「改革」をどんどん打ち出してくる:
      古典落語とか寄席とかでは,いまの時代はダメだ。
    テレビにもっと露出し,インターネットも活用しなければならない。
    落語家は外回りの営業をして,客の掘り起こしに努めること。つぎの世代の客おこしとして,小学校や児童館への出向も積極的に考えること。
    空席をもったいないものと考え,会員制を導入し,会員特別割引によってこの空席が埋まるようにする。
    チケットの特別割引をする。クーポン券を導入する。
    扇子・手拭・座布団だとかのアイテムも旧いし,出で立ちも旧い。これを改める。
    照明を使ったショーアップもやる。

    ここまでくると,あなたも「あまりいい話じゃないな」と思ってくる。
    ──「これは,本業壊しだな。本業壊したんじゃ,本も子もないだろう。


    つぎに,「企業」を,いま定員割れの状況にある大学院にしてみる。
    このときは,あなたも迷ってくる。
    実際,いまの「法人化」の国立大学では,「改革」に乗ってしまう方が多数派になる。

    大学人の一人ひとりが「大学院」をどんなものとして考えているかが,ここで問われていることになる。


    「改革」は,オーソドックス壊しである。
    「改革」のロジックは,「死んでは本も子もないないから,オーソドックスを変える」である。
    そこで,オーソドックスの方は,「反改革」になる。
    そのロジックは,「自分 (オーソドックス) を壊してしまったら,元も子もない」である。

    大学・大学院は,オーソドックスである。 (企業大学が失敗するのは,大学がオーソドックスであることを知らないからである。)
    国立大学の「法人化」では,大学が大学であろうとするときは,先ず「改革」が戦う相手になる:
     自分 (オーソドックス) を壊してしまったら,元も子もない
     -対-「死んでは本も子もないないから,オーソドックスを変える


    大学院の定員割れに対し,「死んでは本も子もないないから,オーソドックスを変える」は,つぎのようなことをやってくる:
      入試成績優秀者報奨,授業料減額,無試験入学,受験料免除,
    大学院の名称変更,コース再編
    これに対し,「自分 (オーソドックス) を壊してしまったら,元も子もない」の方は,どうやることになるか?

    先ず,「状況」というもののとらえである。
    現前は,複雑系の運動の一局面である。 これは,複雑系の運動の中にある。
    運動の最も基本的な要素は,<時間>である。
    オーソドックスの立場は,つぎのようになる:
     オーソドックスは,この<時間>の中を,自分を保って生きていく。
    どうして,生きられると思っているのか?
    つぎのように思っているからである:
     オーソドックスのオーソドックスたる所以は,それが<時間>を通じて生きるものであるということ。 ──<時間>を通じて生きるものは,オーソドックスである。オーソドックスが,<時間>を通じて生きるものである。

     註 : 「改革」は,少し長い時間のことになると,思考停止する。
    例えば「3次募集」では,「そのつぎ」が考えられていない。

    オーソドックスの立場は,複雑系の運動を周期運動のようにとらえる。
    「自分を保つ」を,「山あり谷あり」「冬来たりなば春遠からじ」で考える。

    また,「改革」派が「窮地・困難」を否定的なものにして「脱出」「生き残り」を唱えるのに対し,オーソドックスの立場は,これを合理的で必要なプロセスと考え,肯定的に「棲む」「生きる」を行う場面と定める。


    大学院の定員割れが本質的・構造的なものであるとき,それはわれわれに対するつぎのアナウンスである:
     時代は,大学院の規模を縮小する局面に入っているぞ!
    大学院のオーソドックス (質) を保つ方法は,規模 (量) 縮小である。
    そして<破格>は,これの逆をやっていることになる。