Up 「大学院定員割れ」の問題構造 作成: 2009-02-09
更新: 2009-02-13


    国立の教員養成系大学・学部の修士課程は,昭和63年の免許法改正を契機に,平成8年度までにすべての大学で設置されるに至った。
    この大学院に入ろうとする者の目的は,つぎの2つである:
    • 自己鍛錬
    • 専修免許状の取得

    大学院受験者数の推移は,<この目的が魅力的に見えている者>の数の推移である。 (経済状況とか少子化は,いちおう考慮の外においてよい。)

    一般に,大学院が立ち上がってしばらくは,大学院の内容が未知である分,夢が大きくもたれる。 <この目的が魅力的に見えている者>の数が多い。
    大学院の内容がだんだん定まってくると,学問・研究の地味・たいへんがわかってくる。 大学院の発行する<資格>が社会に出たときにそんなにものを言うわけではないことも,わかってくる。 大学院に対する見方が現実的になり,<この目的が魅力的に見えている者>の数は自ずと減少することになる。

    この減少は,どこまでいくか?
    下げ止まるようなカーブを描くのか?単純減少のラインを描くのか? 下げ止まるにしても,それは定員割れのラインの上か下か?
    大学院の実際をいろいろ観察する限りでは,答えは一様ではない。

    国立の教員養成系大学・学部が立てた修士課程の場合はどうか?
    定員がなかなか充足されない状態が続いてきた。 一方,総体的に見た場合だが,横ばいに推移していて,単純減少のラインを描くようにはなっていない。 しかし,2008年度に急落が起きた。 (「大学院定員割れ」の実際)


    国立の教員養成系大学院の「定員割れ」は,今後の傾向がいまのところまだはっきり見えない。 しかし,大学院の存在理由が確かになっていない現状は,危うい。
    いまは,「存在理由」という冷徹な問題の立て方をすることが,重要である。 (現状は,これをやらないで,<破格>にとびつこうとする。) そしてこの場合,自分に都合よく考えてしまうことに抑制をかけるため,つぎの地点まで戻ってみるとよい:
      国立の教員養成系大学・学部に修士課程があることは,
    昭和63年より前にはアタリマエのことではなかった。

    実際,「国立の教員養成系大学・学部のいまの修士課程の存在理由」の論考は,簡単ではない。 「破格」論を趣旨とする本論考は,これをパスする。 すなわち,結局はつぎのようであろうと考えることにする:
      大学院は,学生に良質な自己鍛錬を提供する。
    そして,このことを知って大学院に入ろうとする者の数が,受験者数である。

    大学側が受験者を呼び込む方法は,ただ一つ。 良質な自己鍛錬を提供していることを知らせるのみ。
    どのように?
    ここを考えろというわけである。

    <良質な自己鍛錬>(中身) と関係ないもの (オマケ) を使って大学院を保とうとするのは,邪道を突く以前に,そもそも通用しない。 しかも,<良質な自己鍛錬>の提供そのものを疑わせることになり,ひとを離れさせることになる。