Up 要 旨 作成: 2009-02-04
更新: 2009-02-04


    ものごとには,時代の流れというものがある。
    大学院の定員割れは,偶然的でなければ,時代の流れである。
    すなわち,大学院に入ろうとする者は増えたり,減ったりする。
    ずっと増え続ける,ずっと横ばいが続く,ずっと減り続ける,というのはない。
    増えるのが良いことで減るのが悪いこと,というのも成り立たない。

    大学は,「大学院の定員割れ」の状況にリアクションする。
    どのようにリアクションするかで,その大学のインテリジェンスの程度が知られてくる。

    かりそめの「前年並み/従来並み」をつくろうとし,そのために大学のシステムやモラルを損なおうとする──これが,インテリジェンスの最低の形である。
    このインテリジェンスの形を,「本末転倒」と謂う。


    しかしここに,「前年並み/従来並み」を作為することにファースト・プライオリティをおく者がいる。 「前年並み/従来並み」をつくらないと立場上絶対に拙い,と思うタイプの人間である。
    彼らが,大学を本末転倒に導く。

    彼らは,自分がやろうとする「前年並み/従来並み」の作為を,「大学のためである」というふうに合理化している。
    そこで,彼らに大学の本末転倒をさせないためには,「大学のためである」の論拠を退けるという行動を他の者が起こさねばならない。


    ただし,彼らは,「大学のためである」の合理化を理論として示すことはしない。
    理論として成り立たないことを,漠然とではあっても,感じている。 「前年並み/従来並み」の作為が「目先のしのぎ」であることも,自覚している。
    ただ,「これをしないわけにはいかない」のアタマになっている。
    このアタマの分析をやろうとすれば,それは「人間の心理・感情」の話になる──「論理」の話とはならない。

    確認: 彼らは「大学のためである」の合理化を理論として示すことをしない。

    ここから,つぎの問題が立てられてくる:
      提案を行うときは,これを正当化する理論を付して行うこと
         の不実行が組織の中で許されるのは,どうしてか?
    実際,「提案を行うときは,これを正当化する理論を付して行うこと」は,組織のモラルでなければならないものである。

    国立大学の「法人化」では,「学長の強力なリーダシップ」のアイデアが信じられ,トップ・ダウンの手法を受け容れる,ということが起こった。
    一般に,トップ・ダウンに慣らされていく中で,組織は「考えるのはトップで,下はトップの指示に従えばよい」の行動傾向をもつようになる。 国立大学もこのようになる。
    そしてこのときには,トップ・ダウンも雑なものになる。
    すなわち,ただ指示を出すという形になる。
    「指示が拠って立つところの理論」という考えを,上の者も下の者もできなくなる。 「意見・考え」「議論」ということばは残るが,それは稚拙で言葉足らずの物言いを交わすことの意味になる。

    「前年並み/従来並み」の作為は,このような組織状況の中で,何にも妨害されずに進行する。


    「大学院の定員割れ」の状況へのリアクションの場合,どのようなものが「前年並み/従来並み」の作為ということになるか? ──指導学生を勧誘する,いろいろな方面に働きかける,定員に達するまで何度も募集する。入試成績優秀者の報奨,授業料減額,無試験入学。大学院の名称をキャッチーなものに変更,定員割れが目立たない形にコース再編,等々。
    本論考は,このうち「定員に達するまで何度も募集する」を取り上げる。


    大学院の入学試験は,昔は年1回で,前期と後期の合間に行われた。
    ところが,「大学院の定員割れ」が生じるようになった。
    そこで,入学試験を年2回行うようになった。
    2回目のものは,「2次募集」と呼ばれ,後期の授業が終わった後に行われる。

    この「年2回」で定員が埋まらないとき,「前年並みを実現しないわけにはいかない」のアタマになっている者は,「さらにもう1回」の破格行動に進もうとする。 これの実施は,時期的に3月になる。
    「さらにもう1回」に一旦手を出してしまうと,以降「年3回」がベースになる。

    「年3回」は,「大学院の定員割れ」に対して効果がない。
    そこでつぎの年度には,破格の度をさらに増した新しい破格を考え出さねばならなくなる。
    しかし,程度問題として,「3次募集」のつぎに「4次募集」をもってくることはできない。 「いつでも受験できる」があり得る形か? しかしこれは無理。
    といったぐあいに,<破格>のネタはすぐに尽きる。


    破格のネタはすぐに尽きるが,やってしまった破格は大学に制度として残る。
    「破格」をやる大学は,「破格」をやることで自分をひどく壊す。 ──「破格」は報いとなって自分に返ってくる,自分の首を絞めることにしかならない,自分の身を滅ぼす。

    本当にクリティカルな破壊は,目に見えない。この場合もそうである。
    「大学院3次募集」という「破格」による大学破壊の内容は,主につぎの2つである:
    • 大学院が貶められるものになる
    • 大学が<破格>常習組織になる (モラル・ハザード)
    ここで「大学院が貶められるものになる」とは,大学院が「入学定員を保つことを自己目的化し,形(なり)振り構わずをやるところ」になったことを,人が気(け)取るようになるということ。

    「前年並み/従来並み」の作為は,「破格」を大学の制度にする。 併せて,大学の<大事>を壊していく。 これが,「前年並み/従来並み」の作為の<トレードオフ>というものである。


    では,「大学院の定員割れ」の状況には,どのような行動を択べばよいか?
    「定員割れ」の状況を,きちんと分析する。
    それが本質的・構造的なものであれば,したがって時代の流れであれば,時代の流れの中で身丈にあった経営をする。
    規模縮小・予算縮小。
    (募集回数を増やすというのは,やることが逆である。)
    大学院入学者が減少する時代の後には,増加する時代がくる。 その時代を展望して,「大事なものを壊さない・絶やさない」ということを努めてやっていく。
    (「破格」をやるというのは,行うべきこととして逆である。)