Up | 要 旨 | 作成: 2009-04-24 更新: 2009-04-24 |
これが商品にされたときの問題は,「教員免許は大学院でとるのがいちばん簡単になる」ということである。 「教員免許取得」を大学院の商品にしようとする者は,つぎのように言うだろう:
法が定める免許取得に必要な単位数は,わずかである。 この単位数が揃っていれば教職に足る,といったものではまったくない。 実際,教員養成課程は,卒業要件を科目履修に絡ませることで,教職に必要な科目をいろいろ履修させ,この中で法が定める単位数もそろうようにしている。 これに対し,大学院では,法が定める必要単位をそろえれば教員免許がとれる。 さらに悪いことに,「教員免許がとれる」を商品にした大学院は,「教員免許がとれる」を最優先にする本末転倒に進むようになる。 「教員免許がとれる」を商品にすれば,「教員免許がとれる」と思って大学院にひとが入ってくる。 「教員免許がとれる」とは,「修士課程の2年間で免許要件の単位数を全部揃うように手配されている」ということである。 しかし,修士課程の2年間で免許要件の単位数を全部揃うようにできるのは,学部生のときに大方の単位を揃えてきた者だけである。 ところが,そうでない学生が入ってくる。 この学生は,免許科目の単位数を集めることを,大学院生である自分の生業(なりわい)にする。 大学側は,この学生に教員免許をとらせるために,必要科目の単位取得見込みの状態で教育実習に行かせるといった無理も,しなければならなくなる。 このことの問題は何か? こんなのは教員養成ではないということである。 「教員養成」ということでは,無法をやっているのである。 「教員免許がとれる」を商品にする大学院は,社会を見ていない。 自分のことに終始して,なりふりかまわずをやる。 教員養成の体(てい)をなしていないところで教員免許を出すのは,社会悪である。 このあたりまえのことが,忘れられる。 この大学院は,報いを受ける。 どんな? ひどいことをやる大学院は,「ひどい大学院」になってしまう。 |