Up 教育内容に対しても指導的立場にシフト 作成: 2008-03-26
更新: 2008-03-26


    現在,教育行政は,国立大学の教育内容に対しても「自分たちは指導してよい・指導できる・指導しなければならない」と思う/思わされるようになった:

    2008年03月25日 読売新聞
    http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080325-OYT1T00392.htm
    大学のカリキュラム、学部ごとに到達目標を国策定へ

     「大学全入時代」を控えて大学間の教育内容に格差が広がっていることから、文部科学省は、人文系、社会科学系、自然科学系といった学部ごとのカリキュラムに、学生が卒業までに習得すべき「到達目標」を導入することを決めた。
     来月にも日本学術会議に審議を依頼し、早ければ2011年度からの運用を目指す。学士課程の教育内容は各大学の自主性に委ねられており、国として基準を策定するのは初めて。到達目標を取り入れた大学には補助金を上乗せするなどして実施を促したい考えだ。
     大学のカリキュラムは1991年に大学設置基準が緩和されて以来、各大学の裁量で多様な科目を設置できるようになった反面、学生が場当たり的に科目を選んだりするなど「学問を体系的に学べない」との批判が高まっている。
     「中央教育審議会」の大学分科会も、25日午後に公表する学士課程教育に関する中間報告で「目先の学生確保が優先され、大学が保証する能力の水準があいまいになっている」と指摘。国に対し、国際的に通用する教育水準確保の枠組みづくりを求め、日本学術会議との連携を提案する。
     文科省はこれを受け、同会議に、10年度までに具体的な目標を策定するよう依頼する。たとえば経済学では「経済学の概念と法則を説明できる」といった目標が、物理学では「問題の原理と法則を突き止める能力がある」などの目標が設定されることになる。
     大学生の教育水準を維持しようという試みについては、英国が全国共通で分野別の到達目標を定めている。


    「法人化」の意味を,国立大学はつぎのように正しく受けとめ,これを実践する:

      「国の財政危機や少子化・大学全入時代をしっかりとらえ,
       <生き残り>の危機感をしっかりもち,
       金策をなりふりかまわずでやること」

    「金策でなりふりかまわず」の言い方は,誇張ではない。 国立大学が国立大学評価機関に提出している『中期目標・計画』『業務の実績に関する報告書』を見れば,この通りであることがわかる。

    国立大学は,「消費者に選ばれる大学」をいいことだとする風潮に乗って,入試制度やカリキュラムをいじって教育内容をおかしくする。
    「消費者に選ばれる大学」は,いまもマスメディアや政府の教育改革有識者会議では正しい命題である。 国立大学の意識も,いまなお,「バスに乗り遅れてはならない」だ。


    上の新聞記事の内容の核心は,つぎのところである:

      「学問を体系的に学べない」との批判に応えるのは,文科省である。
      (国立大学にこの批判に応える能力がないので,文科省が代わってこれをやるしかない。)

    「学問体系を学ばせる」ができない大学とは,いったい何ものか?
    そう思われている大学は恥ずかしい限りであるが,この恥ずかしい限りの大学に,いま国立大学がなっている。 ──少なくとも文科省の目には,「学問体系を学ばせる」が自分ではできない大学のように,国立大学が見えている。


    この話の落ちは何か?
    各国立大学が「到達目標」を一斉に提出する。
    「恥ずかしい限りの大学」をまさに地で行く,というわけだ。

    教育行政には,また「あーあ,やっぱりわれわれが手を取り足を取りしてやんなくちゃならないんだよなー」のため息をつかせることになる。──まことにご苦労様である。