Up 「増長」の構造──国立大学の理知の低劣化 作成: 2008-03-26
更新: 2008-03-26


    国立大学の「法人化」で,教育行政はつぎのように思わせられることになった:
      自分たちは国立大学を指導してよい・指導できる・指導しなければならない

    なぜなら,「法人化」で国立大学が「口を開けて親が餌を入れてくれるのを待つひな鳥」のようになったからである。 ──言うまでもなく,教育行政がこのときの「親鳥」。

    国立大学のこの体(てい)を見て,教育行政は
      大学教育の内容も,自分たちは指導してよい・指導できる・指導しなければならない
    と思うところまでくる。 これが,現在の段階である。


    「自分たちは指導してよい・指導できる・指導しなければならない」と行政に思わせているところの<大学教育>なるものは,先人の仕事を引き継いできたものである。 この歴史を思えば「こんな自分たちが指導していいの?」になるが,いまは国立大学も,大学教育を歴史的に考えるような見識・想像力を失っている。

    「増長」は,一方の側の問題ではない。
    協同作業である。
    有識者会議の素人委員の言うことがみな通ってしまうので,「なあんだ」ということになってしまう。

    昔の大学人は偉かったのかどうかは,議論のあるところだ。 「化けの皮が剥がれた」という見方も立つ。 しかし,素人の論をそのまま拝受する国立大学のインテリジェンスの低劣化については,議論の余地はない。


    重要:「増長」する者は,「増長」させられたのである。