Up 笛吹き役を自任 作成: 2008-03-26
更新: 2008-03-26


    教育行政の中に居る者は,自分のミッションを「教育改革のオーガナイザ」にする。

      教育は「改革」されねばならず,教育の空間は自分によってオーガナイズされねばならない。
      "If I bulid it, they will come."
      (「自分が笛を吹くことにより,みんなが踊り出す。」)

    こうして,教育現場には,「改革」のフレーズと「ああしろ・こうしろ」の指示が教育行政から絶えず降りてくる。


    「<改革のオーガナイザ>の使命感の強い者は,他人に迷惑」
    ──これは,命題である。
    だれも認めたわけでないのに,勝手に<改革のオーガナイザ>をやる。
    自分の知識・理解でオーガナイズをデザインするので,トンチンカンなことをやる。
    周りは「頼むから静かにしていてくれ」の思いなのだが,当人は「絶えずうるさくする」を自分の仕事にしている (静かにしているのは仕事をサボっているのと同じ)。

    先日 (2008-03-11),『イノベーション創出と数学研究──諸科学・産業技術の「知の深み」を目指して』と題するシンポジウムに参加した。文科省委託業務「イノベーションの創出のための数学研究の振興に関する調査」の実績項目の一つになるものである。
    この中で仕事をしている人たちはたいへんご苦労であるが,これの客観的な意味は何か?と考えるとき,関係者の意図から外れる言説を自ずとつくってしまうことになる──以下のような。


    「イノベーションの創出のための数学研究の振興」のフレーズは,カテゴリー・ミステイクである。 このフレーズは,数学研究の現場からは決して出て来ない。 「ウソだろう」という話である。
    逆に,どうしてこのようなフレーズが出てくるのかを考えれば,いまの教育行政の模様がうかがえてくる。

    実際,文科省の担当者も,無理を承知でこのフレーズをつくっている。
    苦心は,「数学研究」と「振興」をどうつなぐか,というところにある。
    実際,数学研究は,行政の施策で「振興」されるようなものではない。
    しかし,行政は「行政の施策で振興する」で仕事をしなければならない。
    ──この自分のフィールドにどう「数学研究」を乗せられるか? 数学研究が「振興されるべきもの」になる絵をなんとかつくらねばならない。

    シンポジウムの基調講演は文科省担当者による「数学への期待──科学技術政策から」であり,ここではつぎの「数学者=竹林に棲む者」の絵が描かれた:

      数学者と産業人を含む他分野の人間との交流が必要。
       →数学者の方々,竹林から出でよ!
       →他分野の人々,数学者の意識は高まっている!
      異分野のことに理解を示す寛容度が必要
       →もともと違う言語を話していると思えば,
        理解の糸口が開けるのではないか。
       →求む!異分野間の言語の翻訳者

    勘違いの絵であるが,当人も無理を承知で描いているのだから,突っ込んでもしようがない。

    講演は,つぎの文言で締めくくられる:

      これまで数学研究は純粋学問と認識されてきた。
      従って,科学技術政策から「忘れられた」。
      世界も,社会も,科学技術も程度の差こそあれ閉塞感がある今日,大元に帰る考え方が重要
      学問の女王たる数学は最も基礎的な考え方を与える
      されば,数学と他の分野との協働を振興しよう!新たな研究スキームはそのための触媒
      新たな試みを成功させるためには,他の分野との相互作用を増すことが必要不可欠

    つじつまを合わせるのにひどく苦労しているのがわかる。
    5行目の「されば」は全然「されば」になっていない──むりやり跳躍している。

    「学問/科学で数学が必要」は,「学問/科学で言語が必要」と同じ。
    学問/科学における数学の必要性・重要性は,言っても意味のないことである。
    そんなのは,アタリマエなのだ。


    行政は「行政の施策で振興する」で仕事をするので,無理をやる。
    行政の行う無理は,構造的なものである。

    問題は,このような無理をやられるとどうなるか?である。
    祭りが起こってしぼみ,その間経費の蕩尽があったという場合は,「無害」の方である。
    「有害」は,研究のモラルや体制がおかしくなる場合。
    ──「法人化」の教育行政は,これをやっている。