Up 国立大学の法人化とは何か : おわりに 作成: 2015-03-14
更新: 2015-03-14


    本論考は,法人化とは何かを,法人化の現場の実態の押さえを論の特色に定めて,論じてきたものである。
    ところでこれは,2012-10-20 のテクスト追加を最後に,4年半近くほったらかしのままになっていた。
    いま退職が目前になり,この論考を宙ぶらりんのままにしておくのはぐあいが悪い。
    ということで,ここに「閉め」のテクストをつくることにした。

    大学教員は,「法人化」の意味を未だよく捉ることができていない。
    これは,巧みな文言で「法人化」の意味を隠蔽してきた行政文書の勝利ということになる。
    巧みな文言とは?
    「改革」の文言である。

    「法人化」の意味は,「これまで時間給制でやってきた組織を,出来高払い制にする」である。
    これ以上でも以下でもない。
    しかし,「出来高払い」の含蓄は,広く深い。
    この含蓄の広さ深さが,「法人化」の意味を「出来高払い制への移行」以上に見せてしまう。


    「時間給制」は,組織論から出てくる。
    「出来高払い制」は,経済原理から出てくる。

    国立大学の「時間給制」は,国立大学が国策でつくったものであることによる。
    「国立」は,「経済原理度外視で立てる」を含意する。
    実際,国立大学の授業料は,1971(昭和46)年までは年1万2千円,1962(昭和37)年までは9千円というふうに,当時においてもひどい採算割れの額に設定されていた。
    この国立大学に対し,もう「国立」を言っている時代ではないとして,経済原理で立つものしようというのが,「法人化」である。

    時間給制を出来高払い制に変えることを「改革」と称するときのその「改革」は,教育・研究の改革ではなく「財政改革」である。
    この単純なロジックが,存外理解されていないのである。
    「財政改革」である「法人化」は,「教育・研究改革」の粉飾が施される。
    このとき,粉飾する者は,自分では粉飾だとは思っていない。「改革」だと思っている。

    「改革」のことばで自分で自分を騙すことになるのは,なぜか。
    大学は,「中期計画・中期目標」で「短期成果」「目に見える成果」づくりを宣言し,宣言したことを行わねばならない。 このメカニズムにより,「短期成果」「目に見える成果」をコンスタントに捻出していかねばならない。
    「成果」は,その都度,新しいものでなければならない。
    この「新しい」に,「改革」のことばをあててしまう。

    実態は,「新しい装いを捻出する」である。
    「新しい装いを捻出する」は,「改革」ではない。


    大学は,「短期成果」「目に見える成果」をコンスタントに捻出していかねばならない。
    こうして,大学は,新しいもの捻出の螺旋運動に取り込まれていく。
    これから脱ける運動ベクトルは,自分の内にはない。

    ただし,一般に,<生きる>はこの種の螺旋運動に取り込まれるようになっている。
    系とは,そういうものである。
    (「原発はやめられない」が,わかりやすい例である。)
    粘菌の集団は,螺旋運動をつくって上昇し,螺旋の柱が高く細くなり,ついに自重を保てなくなって倒れるまで,螺旋運動をやめることができない。

    「出来高払い」制は,定めても直ぐには始められない。
    組織がこれに慣れるまでの時間を,斟酌しなければならないからである。
    いま,国立大学法人法が制定された 2003年から10年を過ぎて,布石もほぼ打ち終わり,「出来高払い」制を軌道に乗せる段階に入った。
    これが,「法人化」の現状況である。