Up 要 旨 作成: 2009-01-29
更新: 2009-01-29


    国立大学の「法人化」では,「地域連携」が「大学評価」の評価項目になった。 各国立大学は,トップダウンで「地域連携」プロジェクトをいろいろと立ち上げる。

    トップダウン型「地域連携」プロジェクトは,深く議論されないで進められる。
    深く議論すると,進める上で不都合なこと,不合理な点が,多々出てきてしまう。
    そして,深く議論すると,リアルな個人の立場・関係の問題に進んで,首謀者・関係者が困ることになる。 ──実際,「地域連携」プロジェクトは,しがらみ形成のプロジェクトに他ならない。

    トップダウン型「地域連携」プロジェクトは,深く議論されない。
    すなわち,少数の人間の<思惑>で進められる。
    <思惑>で進められるられるものは,早晩失敗する。
    問題は,それがどんな失敗の形をとることになるかだ。


    しがらみを形成する主体は,「大学」「地域」といった抽象的なものではない。
    リアルな個人である。
    すなわち,「地域連携」の実現を課せられた大学側担当者と地域側担当者が主体である。
    両者は,「地域連携」の実現に失敗できないという,運命共同の関係になる。

    「地域連携」の実現に失敗できない立場に立たされた個人のプライオリティは,プロジェクトの内容よりも自分の都合の方におかれるようになる。 これは,その個人がけしからんという問題ではなく,だれでもこうなってしまうのである。
    「地域連携」の問題を考えるときは,この構造の理解がいちばんの核心になる。


    「地域連携」プロジェクトは,<兵隊>を動員する。
    ここに,<大本営>対<兵隊>の構造が生まれる。
    <大本営>は,作戦の合理性よりも自分の都合の方にプライオリティをおくところである。 これは,<兵隊>の被害・犠牲の問題を発生されるモーメントになる。

    大学教職員が<兵隊>の場合には,<兵隊>の被害・犠牲の問題は蓋をして済ませる程度に抑えられるかも知れない。 しかし,学生が<兵隊>になっている場合は,<兵隊>の被害・犠牲の問題が起きたときの<蓋をして済ませる>は,できること/やってよいことではない。


    正論は,こうである:
    学生を<兵隊>にするときは,プロジェクトを進める者の<公明正大・正直>が条件になる。
    <公明正大・正直>は,気持の問題ではない。
    <公明正大・正直>を証せるか?という問題である。
    証すとは,十分に長い論証の文書をつくることである。
    「十分に長い」の意味は,「検証に堪えるものにしようとすれば自ずと長くなる」である。

    したがって,学生を<兵隊>にする「地域連携」プロジェクトは,プロジェクトを進める者の<公明正大・正直>を検証するための十分に長い論証の文書づくりから始めることになる。 そして,これの一つの要素に,「深い議論」がある。


    翻って,「深い議論」を避け思惑を先行させるトップダウン型「地域連携」プロジェクトは,はじめから<早晩破綻>の格好でスタートしていることになる。
    なぜ,こうなるのか?
    これを始めるのが,「地域連携」の実現に失敗できない立場に立たされた者であるからだ。 (「やるしかない!」) そしてかれらは,つぎのことばで自らを癒す者になっている:「自分は,前向きの者である

      註:「前向き」は,思考停止に使われることばである。