Up | 競争主義論の根本的誤認 :「優勝劣敗」 | 作成: 2007-06-24 更新: 2007-06-24 |
「優勝劣敗なので,よい方に進む」というわけだ。 そして,競争主義は,この基本の考えのところで既に間違っている。 (競争主義は,間違いからスタートしている。) 実際,競争主義から現れてくるのは,つぎのもの: 「一過性の<邪>(バブル)が現れては消える」の模様の中で,道徳・倫理が低下・荒廃し,競争は水膨れした戦場での泥試合と化す。 1. 勝つ者は,<優>ではない。──<邪>が勝つ。
そして,いまの時代の「条件充足」は,つぎのものである: グローバル体制と世界的格差構造は,「安いものを外からもってきて,価格破壊で勝利する」を可能にする。 規制緩和と新規参入は,ギャンブラーやインチキ企業を招く。 法規主義は,「法規で禁止されていないことは,やってよい」を保証する。 2. 負ける者は,なかなか「退場」しない (簡単に死のうとはしない)。
企業なら,給与のめちゃくちゃな減額,労働時間のめちゃくちゃな増加をやってでも,生き残ろうとする。 あるいは,自ら<邪>をやって生き残ろうとする。 <邪>の手法は,真似られる。 <邪>の手法の蔓延と,自ら死ねない者たちで,競争の基調がつくられる。 3. 勝利した<邪>は,長くは続かない。
真似が広まれば,勝利の手法としての意味がなくなる。 こうして,<邪>の成り上がりは,長くは続かない。 競争は,生き残りの競争。 「敗者の自主的退場」のようにはならない。 勝敗をつけて敗者を退場させる審判みたいのは,いない。 そこで「敗者をつくる」とは「なかなか死のうとしない者を完全に殺すまでやる」ということになるが,こんなことは制度的にできない。したがって,この競争では敗者をつくれない。 こうして,競争は,しゃにむに生き残ろうとする者たちの泥試合になる。 さらに,正道で生きることができないとき,「しぶとく生きる」とは邪道に生きるということ: まともなやり方では生きることができなくなった社会では,「邪道に生きる」が「生きる」意味になる。 <邪>がその社会を覆う。 以上が,「競争主義」の (論理的) 含意。 競争主義によって起こるのものは「優勝劣敗」ではない。 |