Up | 「法人化」は「改革」のお定まりを行く : 要旨 | 作成: 2015-03-17 更新: 2015-03-17 |
当初は威勢のよい声がずいぶん上がったものだが,現実にはそうもいかないことがだんだんとわかってきたのか,あるいは文科省の抵抗があったのか,あるいはもともと落としどころを見込んだ上で値段をふっかけたものだったのか,ともかく「国立大学法人」の形に収まった。 「法人化」で大学が負わされた課題は,「リストラ」である。 しかし,文部行政は,これを教育・研究の「改革」に仕立てた。 というのも,大学はぬるま湯に浸かってのうのうとしていることになっていたからである 上から強力に「改革」を指導しなければならないとなって,大学のこれからの進路をきっちりと定める枠組をつくった。 「中期計画・中期目標」がそれである。 大学は,「中期計画・中期目標」として新プロジェクトを出し続けなければならない。 「出来高払い」「企画に対しカネが付く」のしくみになったからである。 「出来高払い」「企画に対しカネが付く」は,教員も同様である。 即ち,「研究費は科研費でとれ」となる。 「新プロジェクトを出し続ける」は,出来ることではない。 あわせて,教育・研究は,「新プロジェクトを出し続ける」で成るものではない。 教育・研究は,本来地道を行くものである。 「新プロジェクトを出し続ける」は,この「地道」を壊すものになる。 実際,「法人化」によって,本来地道を行くタイプの教育・研究は着実に姿を消していくことになる。 行政の「改革」は,単純思考でつくられる。 これが現場に降ろされると,現場は複雑系だから,現場破壊になる。 「農政」が「ノー政」になるように,「教育改革」もこうなる。 一方,「法人化」によってどんなに教育・研究がゆがもうと,「法人化」はとまらない。 政策で一旦始めたものは,止まらない。 惰性で自動運動するものになる。 なぜなら,ここには<主体>が存在しないからである。 これにストップをかける者は存在しない。 しかし,起こったことは必ず終わるというのも,真実である。 「法人化」は,これを終わらせる契機を内包している。 同様のことの繰り返しに対する「飽き」。 内容の無意味に対する「嫌気」。 そして,「新プロジェクトを出し続ける」をずっと強いられることによる「疲弊」。 しかしこのことは,翻って,「飽き・嫌気・疲弊」が極まるまで「法人化」はとまらないということである。 |