Up 「英語で授業」の制度化の意味 作成: 2010-10-19
更新: 2010-10-19


    必要に応じて英語で授業するのは、アタリマエのことである。 例えば,英語はだいじょうぶだが日本語が不自由な外国からの学生に対しては,適度に英語を交えて授業することになる。
    「英語で授業」の制度化は,このこととは違う。 「英語で授業」の制度化は,「英語で授業」の一律強制のことである。 それが無用でも,また授業として成り立たなくとも,英語で授業するということである。

    「英語で授業」の制度化の意味は,一通りでない。 すなわち,つぎの3つの意味を合わせて考えるものになる:
     
    1. 国立大学のグローバル化
    2. 国立大学教職員に対する競争主義の導入
    3. 大学院不況
    最初の二つは,「国立大学の法人化」の課題が現れた時期に溯る。
    そして最後の「大学院不況」は,現前のものである。

    「国立大学の法人化」は,「国立大学の改革」として考えられたものである。
    時は,「改革」の時代であった。 そしてこの「改革」は,市場原理主義/グローバリズムを基調にしていた。

    国立大学は,「市場原理主義/グローバリズムにさらされていない」ということで,後進的とされた。 「民間企業は市場原理主義/グローバリズムにさらされている,これを手本にせよ」「アメリカの大学は市場原理主義/グローバリズムにさらされている,これを手本にせよ」となった。
    「英語で授業」は,この思想の中に既にあったことになる。

    国立大学教職員は,「競争主義にさらされていない」ということで,後進的とされた。 これにおいても,「民間企業,アメリカの大学を手本にせよ」となった。 そして「英語で授業」が「国立大学改革」の思想の中にあるとは,「英語で授業のできない教員は淘汰されるべき」もこの思想の中にあるということだ。

    この「英語で授業」には「教育」の思想は無いのであるが,当時の「改革」の思想はそのようなものであった。 そして,時代はすでにかなり前から,当時の「改革」を反省するようになっている。
    しかし一方,国立大学の方は,依然この「改革」の真っ只中にいる。 そしてこの度は,「英語で授業」の制度化を果たそうとしているわけである。