Up 「英語で授業」の制度化 (再編集版) 作成: 2010-10-19
更新: 2010-10-20


    1.「英語で授業」の制度化

    1.1.「英語で授業」の制度化の意味

    必要に応じて英語で授業するのは、アタリマエのことである。例えば,英語はだいじょうぶだが日本語が不自由な外国からの学生に対しては,適度に英語を交えて授業することになる。
    「英語で授業」の制度化は,このこととは違う。「英語で授業」の制度化は,「英語で授業」の一律強制のことである。それが無用でも,また授業として成り立たなくとも,英語で授業するということである。

    「英語で授業」の制度化の意味は,一通りでない。すなわち,つぎの3つの意味を合わせて考えるものになる:
     
    1. 国立大学のグローバル化
    2. 国立大学教職員に対する競争主義の導入
    3. 大学院不況
    最初の二つは,「国立大学の法人化」の課題が現れた時期に溯る。
    そして最後の「大学院不況」は,現前のものである。

    「国立大学の法人化」は,「国立大学の改革」として考えられたものである。 時は,「改革」の時代であった。そしてこの「改革」は,市場原理主義/グローバリズムを基調にしていた。

    国立大学は,「市場原理主義/グローバリズムにさらされていない」ということで,後進的とされた。「民間企業は市場原理主義/グローバリズムにさらされている,これを手本にせよ」「アメリカの大学は市場原理主義/グローバリズムにさらされている,これを手本にせよ」となった。
    「英語で授業」は,この思想の中に既にあったことになる。

    国立大学教職員は,「競争主義にさらされていない」ということで,後進的とされた。これにおいても,「民間企業,アメリカの大学を手本にせよ」となった。そして「英語で授業」が「国立大学改革」の思想の中にあるとは,「英語で授業のできない教員は淘汰されるべき」もこの思想の中にあるということである。

    この「英語で授業」には「教育」の思想は無いのであるが,当時の「改革」の思想はそのようなものであった。そして,時代はすでにかなり前から,当時の「改革」を反省するようになっている。
    しかし一方,国立大学の方は,依然この「改革」の真っ只中にいる。そしてこの度は,「英語で授業」の制度化というまた一つ的外れなことを,果たそうとしているわけである。


    1.2. 「英語で授業」の制度化は,箱物づくり

    国立大学は,大学院の学生数が定員を大きく下回る状態にある。
    国立大学は,「学生市場を海外に求める」の課題を立てる。
    「学生市場を海外に求める」ありきから,箱物づくりに進む。

    この箱物づくりの一つに,「英語で授業」の制度化がある。

    「英語で授業」など,本来特別なことではない。必要ならば「英語で授業」をやることになるし,必要なければやらないまでである。

    また,「英語で授業」を制度化すれば学生が海外からやってくるわけではない。「学生が海外からやってくる」は,「授業を英語でやっている」とは無関係のことである。

    「英語で授業」の制度化が箱物づくりとしてやられているものであるとは,どういうことか?
    内容が埋まるかどうか,どんな内容になるかは,思考停止されているということである。
    自分のところでは「英語で授業」を制度にしているということを,実現し,外に示すことが,目的になっているということである。
    一般に,思考停止は,「いまになっては引っ込みがつかない」の表現であり,確信的なものである。


    1.3.「英語で授業」は,国立大学の意味の閑却

    グローバリズムの時代に活躍できる人材に自らをつくろうとし、そのために海外の大学で勉強しようとする者は、アメリカの大学に行くのが合理的である。 国立大学は「法人化」でアメリカの大学もどきを努めてやってきたが、この種の日本の大学に来る理由はない。

    日本の大学で勉強しようと海外から来る者は、日本を勉強するために来るのである。
    特に、授業で日本語にさらされるために来るのである。
    <必要に応じて使う>というのが,授業での英語の使い方になる。

    日本の大学がアメリカの大学でないことは,日本の大学の後進性を示すものではない。プライドをもつことはあっても,引け目を感じるものではない。 しかし,「改革」の時代にはいつも,日本は自分がアメリカでないことを引け目にする。恥とする。
    日本はアメリカになれないし,なる必要もない。 (実際,アメリカは一つしか立たない。) しかし,アメリカになろうとする。 この不合理をさせるものは理性ではないのだから,それはコンプレックスである。
    「英語で授業」の制度化は,このコンプレックスも要素の一つになっている。


    1.4. 大変は,箱物をつくった後に控えている

    箱物づくりは,簡単とは言わないが,つくった後に控える大変から比べればずっと簡単なことになる。

    「英語で授業」を制度化された教員は,「ほんとうにやってよいのですね?あなたがやれと言ったんですよ。」というわけで,英語での授業を始める。
    現実的な場面を欠いたところでやるわけだから,とんちんかんな授業風景が展開される。
    ここでは,「英語で授業」はジョークになっている。 しかし,制度はこのジョークを続けさせる。

    アメリカの大学の「英語で授業」がジョークでなくて,くだんの国立大学の「英語で授業」がジョークなのは,両者のどこが違っているのか?
    前者の「英語で授業」は,学生が多国籍であるという理由から当然こうなるというものである。
    後者の「英語で授業」は,日本人学生なのでジョークなのである。あるいは,外国人学生がいても,それは日本語を学ぼうとする外国人学生であるから,ジョークなのである。

    このように教育がおかしくなることがいちばんの大変であるが,大変はこの他にもいろいろ考えられてくる。ここでは,「営業」に触れておこう。

    「英語で授業」の制度化は,「営業をちゃんとやっているんですか?」という話になる。
    「英語で授業」の制度化は,「海外から学生を呼び込むため」を理由にしたものである。大学経営者は,「海外から学生を呼び込めた」を実現せねばならない立場に自らをおいたことになる。そして,営業活動の本格的展開の号令を発する。
    しかしこれは,ペイしない営業になってしまう。あるいは,ペイするまでの道のりがひどく長いものになる。


    1.5 問題が「教員の英語能力」にズラされる

    「英語で授業」の問題は,「教員の英語能力」の問題にズラされる。すなわち,英語を話すのに苦手意識をもつ教員の場合,どうしても,問題を「英語で授業するのは自分にとってたいへん,学生も英語で授業を受けるのは無理」の問題に自らズラしてしまう。

    「英語で授業」は,これをほんとうにやったときは,とんでもなくおかしいことになる。
    「英語で授業」の問題は,「できてもやるわけにはいかない」という問題である。
    ほんとうにやってしまってよいのですか? へんなことになりますよ」という問題なのである。


    2.「学生市場を海外に求める」

    2.1 大学院不況対策に「海外市場」を答える

    国立大学の大学院は、いまどこもかしこも、深刻な定員割れの状況にある。文科省は、この事態の改善を大学に指導する立場にあるので、大学経営者に「対策として何をやっているのか?」と詰問していく。

    大学院の定員割れは、日本社会の構造的な問題なので、即席の答えなどない。 しかし大学経営者は、自分を<即席の答えを作為しなければならない者>にしているので、即席の答えの作為を喫緊の課題にする。

    「法人化」の国立大学は、「企業のやり方に倣う」を実践してきた。「こんなとき企業経営者なら、どんなことを考え、どんなことを言い、どんなことをやるか?」というふうに、企業経営にヒントを求めてきた。
    定員割れ大学院対策の即席の答えのヒントも、内需減少時代の日本の企業経営者の言に求められることになる。

    内需減少不況に対する企業経営者の言は、「中国市場に活路を求める」である。そして、この言は日本の中で広く受け入れられている。
    大学経営者は、「海外に学生市場を求める」を答える。そして、胸を張るポーズとして、つぎのように言う:「実際わが大学は、「英語で授業」の制度化に入ったところである。

    一般に,ひとは,他人にいい顔をしようとして不正直をやり、そのことによって自らを窮地に追い込み、自らを損ないそして壊す、ということをやってしまう。
    くだんの国立大学は、こうなろうとしている。


    2.2 ムード先行──「市場」の実際に思考停止

    日本経済は,難局に際して「中国頼み」に走る。国内需要減少を,中国からの需要で賄おうとする。

    いま国立大学は,大学院の学生数が定員を大きく下回る状態にある。「国内需要減少」の状況である。
    国立大学は,「中国頼み」に走る企業に倣って,「学生市場を海外に求める」の課題を立てる。いまの大学は「国際交流センター」のような名称の部署を設けているが,ここが海外学生獲得の企画・営業部になる。

    「学生市場を海外に求める」は,<思いつき>である。
    <思いつき>からそのまま企画・施行へと進むのは国立大学の「法人化」施策ではいつものことであるが,「学生市場を海外に求める」もこのようになる。 「学生の海外獲得が自大学において成り立つことなのかどうか?」「これが成り立つための条件は?」から考えるのが順序であるが,これを閑却する。
    また,これとセットになっている「英語で授業」の制度化の場合だと
      この制度でどの程度日本人学生を失うことになるか?
      学生から当然出てくる<わからない授業>のクレームには,制度的に
       どう対応することになるのか?
    の問題を閑却する。
    こうして,「学生市場を海外に求める」ありきから始めてしまうのである。

    そして,埋まりもしない箱物をつくることに邁進する。 ──「埋まりもしない箱物」の意味は,この場合,空回りする制度のことである。

    埋まりもしない箱物 (空回りする制度) は,「あってもなくても同じ」というものではない。「これを抱えることが組織の重負担になり,組織をおかしくしていく」というものである。


    3. グローバリズム/アメリカ指向

    3.1 グローバル化/アメリカ化/無国籍化

    グローバル化とは,アメリカ化のことである。みながアメリカになって均質化することである。そしてこれは,自身の無国籍化である。

    アメリカは,移民の国として興り,その後も移民の国である。
    移民の国は多国籍であり,多国籍は無国籍と同じことになる。

    野球のメジャーリーグは,いろいろな国の優秀なプレイヤーが集まるようになっている。メジャーリーグは多国籍/無国籍である。
    アメリカの有名大学は,いろいろな国の優秀な研究者が集まるようになっている。これは,いろいろな国の優秀な研究者がテナントとして入ってくるテナント業を経営しているということである。大学は多国籍/無国籍である。
    アメリカの有名企業は,いろいろな国の優秀な人材が集まるようになっている。企業は多国籍/無国籍である。
    こうして,国を動かす者は多国籍/無国籍である。


    3.2 国立大学は,無国籍大学として立つことが本義ではない

    「英語で授業」は,「学生の多国籍を実現」の一項目としてある。そこで,「学生の多国籍を実現」の意味を考えることになる。

    「学生の多国籍を実現」の考え方には,つぎの2つがある:
     
    1. 自分を無国籍にする (アメリカの大学にする)。
    2. 自分が日本の大学であることを特色にする。
    Aでは,英語を公用語として使うことになる。「英語で授業」を行うことになる。
    Bでは,日本語を公用語として使うことになる。英語は必要に応じて使うことになる。

    国立大学は,A, Bのいずれになるのか?
    いまの国立大学はAだと思っているが,Bが正しい。


    3.3 構成員の多国籍化

    「英語で授業」は,自大学のグローバル化/アメリカ化を本気で考えるというスタンスから出てきているものではない。しかし,構造としては,大学のグローバル化/アメリカ化が含意になる内容であり,そして大学のグローバル化/アメリカ化は,構成員の多国籍化が含意になる内容である。
    そこで,いまは論点になっていないが,「構成員の多国籍化」についてもここで簡単に触れておくことにする。

    アメリカには,いろいろな国の優秀な人材が集まる。そしてこのしくみにより,アメリカは強い国でいる。

    優秀な人材が集まる国は,強くなる。そこで,国や企業・大学で,自身のアメリカ化を指向するところが出てくる。
    自身をアメリカ化するとは,構成員を多国籍化することである。そしてこのとき,自身は無国籍化する。

    多国籍化は無国籍化である。組織のこれまでのアイデンティティを失うものになる。そしてこのことが当組織あるいはその他にとってダメージになるとき,それは多国籍化のデメリットということになる。

    また,多国籍化では,外国籍者を採用した分,いまの組織構成員から解雇者を出すことになる。自国民の新規採用比率も低くなる。そしてこのことが当組織あるいはその他にとってダメージになるとき,それは多国籍化のデメリットということになる。

    アメリカにおける「構成員の多国籍化」は,プロジェクトで実現されたのではない。「構成員の多国籍化」実現の経緯は,アメリカの歴史そのものになる。
    しかし「国立大学の法人化」プログラムは,これをプロジェクトでやろうというわけである。

    「構成員の多国籍化」として行うことになるものは,「英語の公用語化」という一点においても,厖大にある。
    生半可にこの課題にあたれば,組織を壊す。後戻りもできないようになる。 しっかり思考できし,しっかり計算が立てられ,そして確たる覚悟を持てるというのでなければ,「多国籍化」の課題を立てる資格はない,ということである。


    4. 付録:グローバリズムの意味

    「グローバル化」とは「アメリカ化」のことである。
    みなが,アメリカになることである。
    みなが,アメリカというローカリティで均質化することである。

    「グローバル」は「インターナショナル」のことではない。
    「グローバル化」とは「アメリカ化」のことである。みながアメリカになり,アメリカというローカリティで均質化することである。
    「インターナショナル」は,これとは逆に,ローカリティの色濃い多様性が基礎になる。
    「インターナショナル」は,多様なローカリティの交流である。
    「インターナショナル」とは,自分とは異なるローカリティに出会って,反照的に自分のローカリティを知ることである。

    「グローバル」は「ユニバーサル」のことではない。
    「グローバル化」とは「アメリカ化」のことである。みながアメリカになり,アメリカというローカリティで均質化することである。
    「ユニバーサル」は,ローカリティから超然とする様である。
    「グローバル」は,「アメリカ」という一つのローカリティの絶対化である。
    「ユニバーサル」は,「アメリカ」を多様なローカリティの中の一つとして相対化する。

    「グローバル」は「地球的」のことではない。
    「グローバル化」とは「アメリカ化」のことである。みながアメリカになり,アメリカというローカリティで均質化することである。
    特に,「多様性」が含意になっている「地球的」の意味とは,まったく無縁である。