Up 倫理意識の涵養 作成: 2008-07-17
更新: 2008-07-17


    自分の<持たざる>が<ひとから奪う>に進む者もいれば,進まない者もいる。
    <試験の準備が全然できていない>が<カンニングする>に進む者もいれば,進まない者もいる。
    この違いの説明概念が,「倫理意識」である。

    カントの道徳論は,道徳を操作的に定義する ("Test of the Universalized Maxim"):

      みんながそれをやったらそれの意味を失わせる行為が,「不道徳」。
      カンニングは,みんながこれをやれば試験の意味が失われるから,「不道徳」。

    実際,倫理意識は,自分を社会の中に埋め込み客体化する視点・ロジック・イマジネーションをもっていることが要件になる。
    この視点・ロジック・イマジネーションは,学習経験の賜。
    学習経験の薄弱には,視点・ロジック・イマジネーションの内容の薄弱,そして倫理意識の薄弱が応じる。

    倫理は,ことばではなく,カラダの問題である。
    言って聞かせるみたいなやり方でできてしまうものではない。
    (倫理意識の涵養は,困難な教育的課題である!)


    カンニング対策の本道は,倫理意識の涵養である。
    「試験監督強化」のカンニング対策は,この本道の否定になる。
    プライオリティの高さからいえば,
      「倫理意識の涵養のために,試験は監督しない」
    の方が本当である。

    「大学の精神文化を長いスパンで考えるためには,目先の犠牲もしかたがない。」の達観が求められる。