Up 要 旨 作成: 2009-01-05
更新: 2009-01-05


    「アカハラ」とは,大学が舞台となる「パワハラ」のことである。
    この「アカハラ」の一つとして,<学業を課す>の内容に関わるものが考えられてくる。 すなわち,教員の考える<学業を課す>を学生がハラスメントと受け取る場合である。

    ここには概念の混同も見て取れるが,大学教育を<顧客サービス>視するきらいのある時代には特に,「アカハラ」の現実的な問題と考える必要が出てくる。
    本節では,この「アカハラ」について考察する。 ──本節に現れる「アカハラ」のことばは,特にことわらない限り,すべてこの「アカハラ」を指す。


    <学業を課す>は,教員と学生が互いに納得し合うことで成立する。
    納得に至るための方法は,コミュニケーションである。
    このコミュニケーションの概念ないし方法を,教員・学生のどちらか,あるいは両方がわかっていないとき,ハラスメントへの進行の余地が出てくる。

    教員は,自分の考える<学業を課す>が学生に受け取られるときの多様性を理解していなければならない。 学生は,自分の意思を伝える/異を述べることが,あたりまえにできなければならない。 この二つは相乗作用であって,この相乗作用の程度が,その教員の授業の「雰囲気」というものになる。


    教員は,教員として完成しているものではない。 教員は,つねに成長途上であり,この意味で未熟である。
    したがって,<学業を課す>の内容を自分で開発することになる大学教員の場合,つねに「アカハラ」の問題を携えることになる。 「アカハラ」は,忌避すべき問題ではなく,失敗学の趣でこれと上手に付き合えるようになるべき問題である。

    「セクハラ」の雑駁な定義に,「相手にセクハラと受け取られたものがセクハラ」というのがある。 この雑駁な定義の形は,「アカハラ」には使えない。 実際,「相手にアカハラと受け取られたものがアカハラ」ということになれば,大学教育は成り立たない。
    したがって,「アカハラ」の問題は,「臭い物に蓋」のような処理をしてはならない。 これをすることは,大学の自殺行為である。

    特にこの意味から,「アカハラ」の問題はオンブズマンには馴染まないと考えるべきである。 実際,オンブズマンは,「個人のプライバシー」を名分にした密室の処理になりやすい。 この場合,「アカハラ」の当事者は,少なくとも見かけ上は,「臭い物に蓋」の「臭い物」にされてしまう。 ──翻って,「臭い物」で終わりたくなければ自分の姿を現さねばならない,ということである。