Up 要 旨 作成: 2009-03-04
更新: 2009-03-04


    「謝罪会見」の報道が,やたらと多い。
    統計グラフをつくれば,ここ十年くらいの間に急上昇といった感じだろう。

    翻って,昔はこうではなかったわけだ。
    では,昔が未開・野蛮で,いまは進歩ということか?
    そうではない。
    精神文化の方は,退行している。

    日本は,アメリカの後を追う。
    アメリカの<訴訟文化>に,いま日本は届いた。
    ただし,この文化にどう対してよいのかわからず,よたよたしている。
    そして,この一つとして,独特の<謝罪文化>を醸成している。

    「謝罪」とは?と考えてみよう。
    それは,単純・自明ではない。
    「謝罪」は,意味・論理を考えれば,わけのわからないものになる。
    そこで,意味・論理は思考停止される。
    すなわち,四の五の言わず謝罪する。

    実際,四の五の言わず謝罪するが,無難である。
    謝罪を見て溜飲を下げたい者が,謝罪の相手である。
    四の五の言ったら,相手を難しくしてしまう。
    相手を難しくしてしまうと,ずっとこの事態から脱けられなくなる。

    さっさと終わらせるために,四の五の言わず謝罪する。
    さっさと終わらせるための<破格>を,みんながやり出す。

    これでいいのか?
    いいことにはならない。報いが自分らに返ってくる。
    すなわち,なんでもかんでも「謝罪」を求めるモンスターだらけの世の中になる。

    精神文化の退行。
    今は,精神文化がおかしい時代である。
    「意味・論理を思考停止しない」というスタンスを「哲学」というが,いまは「哲学」の失われた時代である。
    典型的・象徴的に,国立大学から「哲学」が消えた
    さっさと終わらせるための<破格>を,ありとあらゆる場面でやる。
    そんなところに,いまの国立大学はなってしまっている。

    一事が万事ということで,<学生の犯罪に大学が謝罪する>の論理を,ここで改めて考えてみるのがよい。