Up 要 旨 作成: 2010-02-28
更新: 2010-02-28


    「カリキュラムをこのようにいじると,どうなる?」の計算は,<複数の主体の行動>の流れの計算である。 この計算を上首尾にやることは,人の力に余る。 すなわち,想定外の事態で,カリキュラム変更を失敗と定めるようなのが,必ず起こる。
    この意味で,カリキュラムの含意は,複雑系である。

    カリキュラムの含意が複雑系であることは,理解されていない。 カリキュラムは,「意見を出し合い,それで決めてよい」程度のものに思われている。 ここで「意見」とは,「思いつきを言う」である。 すなわち,肝心の<計算>が,ここでは抜けている。 ──「抜ける」の意味は,「思考停止」ではなく,「<計算が要る>という概念がはなから持たれていない」である。

    大学での学生の学習は,科目履修の形で行われる。 学生の科目履修行動は全体としてひとつの「交通」を形成し,そしてこの交通のフレーム・道路がカリキュラムである。 よって,これがおかしくなると,大学教育全体がおかしくなる。
    カリキュラムのこの重要性を見るとき,それをいじる者の拙劣さがコントラストをつくる。

    カリキュラムが拙劣にいじられることから,大学教育を守らねばならない。 そのためには,遠慮したり傍観者でいることは,ダメである。 「カリキュラムの検討・議論の作法」を改めて問題にして,カリキュラムの検討・議論が複雑系の理解にしっかり基づいたものに改める必要がある。