Up 「意向投票」の廃止 作成: 2014-11-19
更新: 2014-11-19


    ここに,2014-11-03 の北海道新聞の社説がある:
      学長の選考 ── 自治揺るがす投票廃止
      「大学の自治」が空洞化しかねない。 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。
      経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。
      法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞感が募らないだろうか。
      経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。
      教職員による投票は2004 年の国立大学法人化前はほとんどの大学で行われ、最多得票の候補者が学長に選ばれてきた。
      法人化後は、学長を最終的に決めて文部科学相に推挙するのは学長選考会議と明確化され,教職員による投票は必ずしも行わなくてもよくなった。
      だからといって、一気呵成に廃止してよいものか。大学は自治が保障されることによって、学問と教育の自由が守られてきた。
      法人化から10年を経てなお、ほとんどの大学が学内投票を行い、その結果を尊重しているのは、教職員が自ら意思を示す投票行為が自治を下支えしているからだ。
      今年、大学当局が投票廃止に動いた京大で、教職員が大学の自治を掲げて反発し、廃止を阻止したことは記憶に新しい。
      逆に、07年の山形大学長選考では、投票2 位の文科事務次官経験者が非公開の選考会議で選ばれ、就任後に選考会議で投票廃止を決めて学内の批判を浴びた。
      国立大学に国際競争力や産学協同の開発力がますます求められるようになり、学長に経営手腕や外に開かれた視野が必事とされるようになったのは確かだ。
      しかし、大学は利潤や業種を優先する企業とは異なる基本理念で運営されなくてはならない。そうでなくては、成果主義や効率一辺倒になって、基礎科学や実現に長い時間がかかる研究、社会のあり方を問う文系の学問がままます切り捨てられかねない。
      学問を守り発展させるためにも、大学の学長には幅広い見識と教員や研究を大事にする内面を備えた人物が就くべきだ。
      そうした学長を決める場が「密室」の選考会議だけでいいわけがない。


    国立大学は,国立大学法人になった。
    これは,国立大学が国立大学法人法に順うものになったということである。
    国立大学は,国立大学法人法が定める内容に違反することができない。

    「意向投票」は,法からの逸脱になる。
    特に,「意向投票」に学長選挙の意味をもたせることは,法の違反になる。
    「意向投票」は,国立大学法人法のどこを叩いても出て来ないというものである。

    では,「意向投票」の意味は何であったのか?
    組織は,従来型と180度転換するようなことをすると,ぐちゃぐちゃになることが見込まれる。
    そこで,「少しずつ変える」が,法人化の手法になる。
    飛行機の離陸には,車輪と主翼のフラップを用いる。
    必要な高度・惰性を得たところで,これらは引っ込められる。
    「意向投票」は,このような装置の一つである。
    「意向投票」は,教員に対する懐柔策であり,「一時的使用」がこの策の位置づけであった。
    翻って,「意向投票」をいまになお求めようとするのは,「意向投票」の意味を端(はな)から理解していなかったということになるわけである。

    「意向投票」は,大学経営者が仮にやりたくてもできないものである。
    法に違反する事がらになるからである。

    国立大学法人となった大学の学長には,その時点で学長であった者がシフトして成った。
    国立大学法人の学長は,学長選考の仕組みにより,一旦成った者/派が永久にその座に就く。
    学長と対立する体(てい)で立つ者/派の出る幕は,学長のひどい失政と退陣という事態になったときに限る。
    「一旦就いた者/派は,ずっと就き続ける」──これは国立大学法人法から導かれる命題である。
    即ち,だれがなっても,こうなる。
    そもそも学長になろうという者は,自分を是(ぜ) にして,自分の遺伝子を残そうとする者である。


    以上は,現象論・構造論である。
    一方,「意向投票」の実現を唱えるのは,実践論である。
    さて,「意向投票」の実践論は,どんな形を取り得るか?

    「意向投票」の要点を繰り返す。
    「意向投票」は,大学経営者が仮にやりたくてもできないものである。
    国立大学法人法に違反する事がらになるからである。

    したがって,「意向投票」の実践論としてロジックが導くものは,国立大学法人法を廃止に導く実践の論である。
    立法府に場に求めれば政治闘争であり,司法府に場を求めれば違憲闘争である。
    この二つ以外に形は,無い。
    即ち,その他となるものは,実践論ではない。

    実践論でないとなれば,それは何か?
    ロジックとして,思考停止ということになる。
    機能性を思考することの停止である。

    大学の内部では,「意向投票」の廃止に対し,反対の「声明」をとりまとめようという動きが起こる。
    さて,この実践論は,上に述べたうちのどの類か?
    答えは言わずとも明らかである。