Up 要 旨 作成: 2011-03-25
更新: 2011-03-25


    「人権・倫理」の授業は,「人権・倫理」という<考え方>を教える。

    犯罪をするのは,「人権・倫理」の考え方をもっていないからではない。
    「人権・倫理」の考え方をもつことと犯罪をしないことは,別のことである。
    ――「人権・倫理」の考え方をもっていることは,犯罪をしないということではない。 犯罪をしないとは,「人権・倫理」の考え方をもっているということではない。

    実際,「人権・倫理」の考え方を独特に醸成して犯罪をするということも,ある得るわけである。 ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公は,この場合である。 そしてこの類の犯罪は,純粋な犯罪ではない。いびつな犯罪である。

    「犯罪」に「人権・倫理」を結合させようとするとき,その「人権・倫理」は「犯罪」の形而上学になるのみである。 とくに,「人権・倫理」の本来の主題の意味 ( §「人権」,§「倫理」) を失わせる。 「犯罪」と「人権・倫理」は,対になる主題ではない。


    純粋な犯罪は,文学や映画・演劇の重要な主題になる。
    形而上学に回収されない性格のものであるから,文学や映画・演劇の重要な主題になるのである。

    犯罪は,文学的なものである。 したがって,<大学の科目による「学生に犯罪をさせない」の実現>を考えるときは,その授業は文学に類するものである。 ――「人権・倫理」の科目をもってくるなどは,はなからズレている。

    くどいようだが,もう少しパラフレーズを続ける。
    学生が大麻に手を出すのは犯罪であり,「学生に犯罪をさせない」で考えている「犯罪」になる。 しかし,大麻に手を出すのは,「人権・倫理」の考え方をもっている・もっていないの話ではない。
    「大麻」を「殺人」にするとどうか?
    「人」の要素が入ってきたからといって,「人権・倫理」の考え方をもっている・もっていないの話になるわけではない。 実際,文学や映画・演劇の中の「殺人」は,「人権・倫理」の考え方をもっている・もっていないの話ではない。


    「人権・倫理」の主題は,「犯罪」ではない。
    「人権・倫理」の主題は,つぎの人間行動である:
    「いまさら引っ込みがつかない」を強迫観念にしてしまった者は,他人を犠牲にすることをやり続ける。
    そしてつぎが,この行動の力学の原理である:
    面子を保とうとする行動は,一回これをやると,以降ずっと続けねばならないものになる。

     例: 一回嘘をつくと,以降ずっと嘘を続けねばならなくなる。
    一回粉飾をやると,以降ずっと粉飾を続けねばならなくなる。


    「学生犯罪」は,この「引っ込みがつかなくて他人を犠牲にする」タイプの行動ではない。
    このタイプの行動になるものは,「企業犯罪」とか「圧政」とかである。
    「引っ込みがつかなくて他人を犠牲にする」は,未熟な学生のやることではなく,名声のある立派な大人のやることである。

    特に,大学であれば,「引っ込みがつかなくて他人を犠牲にする」は,大学経営者・教職員のやることである。学生のやることではない。 ( § 大学における「人権・倫理」問題)
    「犯罪を無くすための人権・倫理科目」という設定の構造的奇体は,大学にあってはいよいよ目を覆わしめることになるわけである。