Up 「差別」は,<悪者>が存在しない 作成: 2011-11-22
更新: 2011-11-22


    「差別」は,「悪者」の話だったら簡単であるが,そうでない。
    被爆者を自分の家の嫁にしない,部落出身者を自分の社では雇用しない,福島産の食材を自分の家族では避ける── みんな「問題回避」の「身内のためによかれの気持」がやることである。

    ある学会が,福島大学で開催することになっていた全国大会を,被曝を問題にして別の大学でやることにした。 そしてこれが「差別」の問題になる。
    この「差別」の実行者は,「悪人」「教養のない人」ではない。 定めし,「善人」であり「教養のある人」であり,そして「正義の人」である。
    逆に,「大会に参加して,支援の気持を示そう」を言う者がいれば,それは「被爆地の食材を食べ水を飲むことで,支援の気持を示そう」を言うのと同型である。それは,見識でもなんでもない。 「被曝」問題は,義侠心の問題ではないからである。
      確認:放射能問題は,風評問題ではない。

    「差別」を行うのは,<個人>ではない。<立場/役割>である。
    差別する立場/役割にならずに済んでいる者がいる一方で,差別する立場/役割に立たされてしまう者が出てくる。 いま,差別する立場/役割にならずに済んでいても,いつ差別する立場/役割になるかわからない。

    「差別」に解決の方式はない。
    例えば,上の全国大会執行部の場合,放射能問題も差別問題もともに深刻に考えるタイプの執行部員には,福島大会開催問題は「絶対矛盾」の問題である。解はない──「止揚」もない。