Up コスト感覚の変化が「差別する者」をつくる 作成: 2014-11-18
更新: 2014-11-18


    公立福岡女子大に入学願書を受理されなかった男性が「違憲」と提訴へ,が報道されている。
    入学願書が受理されなかったことを,「差別」としたわけである
    大学側は,女子大でやってきたことの歴史を,自分の理として立てる。

    店のコーヒーでやけどした者が,その店を訴える。
    道路の穴につまづいて怪我した者が,道路が市道であったので,市を訴える。

    この3事例は,訴えられた方は,「えっ,うそー」になる場合である。

    実際,この種のケースでは,一方で,訴えない者がいる。
    訴える者と訴えない者の違いは,何か?
    「権利」意識ではない。
    「コスト」感覚である。

    自分の都合・感情と,自分の主張が全体の理に成ったときの社会的コストを,秤にかける。
    自分の都合・感情を重いとする者が,訴える者である。
    社会的コストの方を重いとする者が,訴えない者である。

     註 : 「女子大」の場合の社会的コストは,今後は「女子大」をやれなくなるということである。
    「コーヒー」の場合の社会的コストは,今後は社会が「免責」の文言で溢れかえるということである。
    「道路」の場合の社会的コストは,今後は市はすべての穴をふさぐ工事を強いられるということ,あるいはすべての穴を登録して「これらの穴に注意」の「免責」文書で切り抜ける策に出る (例えばニューヨーク市はこれをやっている) ということである。

    さて,世の中のダイナミズムは,「権利」が「コスト」に勝つようになっている。
    世の中はこれらの訴えを標準にしていく。
    「法」を立てれば,こうなる。

    そしてこれは,コスト感覚の変化に対応しない/できない者は,特に「差別する者」になるということである。