Up 「<性>を持ち込まない」の識見は,「女性差別」に 作成: 2011-11-22
更新: 2011-11-23


    修道院は,男女別々につくるようになっている。
    男女を混じらせれば,<男と女>の場なって,「修道」どころではなくなるからである。

    刑務所は,男の囚人と女の囚人を,別のグループにして互いに離す。 <性>の問題を持ち込まないためである。 同じ理由から,囚人の看守に性的 (sexual) な異性を登用するというのは,賢い考えではない。

    <性>の扱いは,場の因子としてつねに決定的なものになる。 そこで,「組織保持」が命題になるところ (「共同体」) では,<男と女>を家だけのことにして,ほかでは男と女を切り離すことを代々制度にしてきた。
    この形は,可能性としてつぎの2通りになる:
     
    1. 男が外に出て,女は家に閉じこもる
    2. 女が外に出て,男は家に閉じこもる
    そして,Aが実際の形になっている。
    なぜ,こうなるのかというと,出産・育児があるからである。 実際,「出産・育児」を要素にした場合の<経済性>実現の形は,AかBかでは,Aになる。

    男性中心組織 (「男組」) とは,「<性>による場の攪乱」の識見から,女性を自分たちの中に入れないことを方法にしている組織のことである。
    同様に,「女組」もあり得る。


    「組織と性」の科学の視点に立てば,「男組」は,女性に対する「偏見・蔑視」ではなく,「<性>を持ち込まない」の識見である。
    これを「偏見・蔑視」のはなしにしているのは,イデオロギーである。
    しかし今日,「<性>を持ち込まない」の識見は,「女性差別」になってしまう。

    野村證券事件 (東京地判 2002.2.20) は,野村證券の男性中心組織を有罪としたものである。
    イデオロギーは,野村證券の男性中心組織を「不見識100%」にする。
    一方,「組織と性」の科学を試みるならば,不見識よりも多くの見識をそこに見出すことになる。

    企業での女性の昇進を拒んでいるものは,「女性蔑視」ではない。
    「女性上司」の含蓄に<男と女>の問題を見てとる思慮・識見である。

    男女一緒の組織は,自然にまかせれば,<男と女>になる。 そして,<男と女>になることは,組織が壊れることである。
    そこで組織は,意識的・無意識的に,明示的・暗黙的の両面で,<男と女>を阻止する制度・慣習をつくっている。 男女のトイレを別々に設けているのは,これの簡単な例である。 そして,「女性の昇進を拒む」をこれの一つにしている組織もあるというわけである。

    組織によっては,「セクシュアルな組織」は組織のよい形である。
    しかし一方に,この形ではやっていけない・やっていきにくい組織が厳然として存る。