Up 「差別」と革命イデオロギーの親和性 作成: 2011-11-26
更新: 2011-11-26


    「○○差別」「○○蔑視」の表現は,既成の体制の要素になっている<○○の役回り>を「理不尽」と断ずる表現である。
    この「理不尽」を人格化するとき,すなわち「理不尽は,悪い者が行うことである。(正しい者は,理不尽を行わない。)」の考え方をするとき,悪者論になる。

    <○○の役回り>は,既成の体制の要素である。 よって,<○○の役回り>を<悪者の仕業>にすることは,既成の体制を<悪者の仕業>にするものになってしまう。 しかし,既成の体制は,全員がこれの要素である。 既成の体制を<悪者の仕業>ということにすると,全員が悪者になる。 これでは,悪者論にならない。

    そこで,だれを悪者にし,だれを正しい者にするかという問題になる。 ここからは,運動論に入っていく。 (一般に,悪者論はつねに運動論といっしょである。)

    この運動論は,悪者と正しい者を立て,《悪者が専ら自分のために保っている既成体制を,正しい者が打倒する》をストーリーにするものになる。 形として,これは革命イデオロギーである。

    一方,《悪者が専ら自分のために保っている既成体制を,正しい者が打倒する》をストーリーにする革命イデオロギーは,《悪者-対-正しい者》を立てられるテーマを求める。 そして,「差別」は格好のテーマになる。

    こういう具合に,「差別」と革命イデオロギーは親和関係にある。
    強調するが,この親和関係は,構造的なものである。