Up 「大学生の道徳の時間」? 作成: 2011-02-06
更新: 2011-02-10


    学校経営者は,犯罪抑止対策を措置される側のリアリティーに考えが及ばない。 あるいは,考えを及ぼさない──思考停止する。
    学校経営者は,「人権・倫理」の科目を,学生に対しいろいろな「するな!」を言うことが内容になるものとして思い描き,そしてそれが大学の科目として成り立つと思う。
    このような単純な像を思い描けるのは,特につぎの問題を思考停止でうっちゃっているからである:
      やっていない者に「するな!」を言うことの構造的不合理。
    ──大学生は,自分がやってはいないことで「するな!」を言われることをどう受け取る者であるか?

    「人権・倫理」の科目は,<小学校「道徳の時間」の大学版>の発想である。
    しかし,<小学校「道徳の時間」の大学版>は,成り立つのか?
    大学経営者は,つぎのように言うだろうか?
     「道徳の時間」は,だれにとってもつねに成り立つ。なぜなら,「するな!」は個人のうちで絶えず呼び起こされねばならないものであるから。
    これに対しては,つぎのように返すことになる:
     そういうことなら,<小学校「道徳の時間」の大学経営者版>はいかがでしょう?
    そしてこの提案に対しては,もちろん,「ご冗談でしょう」になるわけである。


    <小学校「道徳の時間」の大学版>の発想には,大学生に対する「子ども」扱いがもとになっている。

    いまの時代は,大学生を「高校生の続き」と位置づける。 高校生は中学生の続き,中学生は小学生の続きである。 大学生は小学生と連続につながる。 小学生が大きくなったのが大学生である。 そして,大きくなったのはカラダであり,アタマであるとは見なされない。
    こうして,大学生は「子ども」である。

    大学生に対するこの見方 (「子ども扱い」) は,少し歴史を振り返ってみても,むしろ特異である。
    明治の時代は,大学生は「学士」である。 少し前には,「社会に出る前のモラトリアム期間を用いる者」が「大学生」の意味になっていた。 「学士」「社会に出る前のモラトリアム期間を用いる者」には「未熟」の意味が含まれているものの,「高校生の続き」「子ども」の意味合いはない。 大学生と高校生以下との間には,「切断」が考えられている。

    大学生を「子ども」にする時代は,小学校「道徳の時間」の大学版の科目をつくる時代である。 「人権・倫理」の科目は,小学校「道徳の時間」の大学版として発想される。




    閑話:「するな!」を言うことのリアリティは?

    近所で子どもの盗みがあった。
    自分に子どもがいる者は,自分の子どもに対し「盗みはするな!」と言うことになるのか?
    学生による強姦事件があった。
    教員は,他の学生に対し「強姦はするな!」と言うことになるのか?

    盗みはするな!」のことばをひとに言うとき,相手は<盗みをするかも知れない者>になっている。 よって,「盗みはするな!」を言われた者は,言う者の<不当>を感じる。
    盗みはするな!」を言ってくるのが自分の親であっても,<不当>を感じるのは同じである。しかもこの場合は,さらに,「自分はそんなふうに思われているのか」の裏切られた気持にさせられることになる。
    よって,関係のない者に「盗みはするな!」を言うときは,余程注意して言うことになる。 ──実際,言う場面はほとんど考えられない。

    教員が一般学生に対して「強姦はするな!」のことばを言うとき,言われた学生は<強姦するかも知れない者>になっている。 よって,「強姦はするな!」と言われた学生は,言う者の<不当>を感じる。 大学生の場合だったら,少し余裕を持てるほどの知性があるので,その教員のことを<アタマが悪い者>にするという方法で折り合いをつけるふうになるだろう。
    よって,一般学生に対して「強姦はするな!」を言うときは,余程注意して言うことになる。 ──実際,言う場面はほとんど考えられない。