Up 大学における「人権・倫理」問題: 要旨 作成: 2011-02-19
更新: 2011-02-22


    ひとに対し「人権・倫理」の在り方を声高に言う者は,同じだけ,自分の「人権・倫理」の在り方が問われる者になる。
    全学一斉「人権・倫理」科目を立て,「人権・倫理」の在り方を声高に言う大学は,同時に,自分の「人権・倫理」の在り方が問われることを願っている者である。

    加えて,大学における「人権・倫理」問題は,学生の「人権・倫理」の在り方より遙かに以前に,大学の「人権・倫理」の在り方の問題になる。 なぜなら,端的に,学生は「人権・倫理」問題を起こせる者ではないからだ。


    人権・倫理は,「人権侵害」「倫理に悖る」の形で問題になる。
    そして,「人権侵害」「倫理に悖る」は,つぎが構造になる:
      《自分/われわれが第一》の行動をする。
      これが,あるひと/人々に被害を与える格好になる。
      ただし,この行動は犯罪ではない。
    この構造がないところに「人権・倫理」のことばを使うと,間違いになる。

    「人権侵害」「倫理に悖る」ができるのは,《自分/われわれ第一》からひとを翻弄する力をもつ者である。 特に,権力をもつ者である。
    学生は,このような《自分/われわれ第一》も力も,もっていない。
    「人権侵害」「倫理に悖る」は,学生が行うものとしては,ほとんど考えられない。

    「人権・倫理」問題を起こせる者は,自分の<やむを得ない>のためにひとを犠牲にできる者のことであり,これができるのは,力 (権力) のある者である。 大学にはこの力がある。 そして実際,大学は「人権・倫理」問題を問われる者になる。
    「人権侵害」「倫理に悖る」ができるのは,大学の組織・制度,大学経営者,教員であり,大学の側である。 大学における「人権侵害」「倫理に悖る」が出てくるのは,もっぱら大学の側からである。


    そこで,大学の「人権・倫理」の在り方を,ここで改めて問題にしていく。