Up 管理・統制: 要旨 作成: 2012-12-10
更新: 2012-12-10


    「倫理・人権」科目は,現在,講堂における講義が施錠された中で行われるようになっている。
    施錠措置の理由については,推測可能である。
    また,この措置を批判するのに,「非常時パニック状態の集団が施錠扉に殺到したときの危険事態」を理由として持ち出すことも容易い。
    しかし,「倫理・人権」科目に関わる者は,ここは「施錠」の意味をその含蓄にまで及ぼして思考することの方に,意義を見ていくことになる。

    「施錠」は,授業管理の一環 (一装置) として現れるものである。

    「倫理・人権」科目は,<きちんと・失敗なく行われるべきもの>になる。「なる」の意味は,<きちんと・失敗なく行われるべきもの>の精神構造が関係者の間に醸成されるということである。
    この精神構造は,受講生および担当教員を<無秩序>と捉え,管理・統制によって<授業攪乱>を抑え込んでいくべきと定めるものになる。

    管理・統制は,授業回数を重ねる毎に,<体制>として定着する。
    学生にとってはもちろん,教員にとっても,この体制は苦痛である。
    しかし同時に,学生も教員もこれに順応していく。
    講義の中で学生および教員に可能な自由行動は,「シャットアウト」だけである。授業中の学生の居眠りは,居眠りではない。シャットアウトである。

    講義は,管理・統制体制に守られている。
    講義は,現状では,学術レベルを含めその内容において,そして授業者の授業技能において,講義を聴かされる者にとって堪えられないものになる。講義は,学生の我慢によって保たれる。
    「アカデミック・ハラスメント」が,ここに現前している。
    講義は,学生へのハラスメントで保たれる。
    学生に対する「差別」が,ここに現前している。

    「倫理・人権」科目は,現在,「差別」を中心課題にするものになっている。そして授業者は,「差別をのりこえよう」をスローガンにする者である。
    しかし,「差別」は,「ある場合は差別をし,ある場合は差別をしない」というものである。「ある場合は」に,「差別」の要点ある。
    「倫理・人権」科目における「教員による学生差別」の構図は,このことを示している。

    「倫理・人権」科目が管理・統制体制をつくり出し,学生差別を現すものになるのは,組織のダイナミズムがこういうものだからである。 個人は,組織のダイナミズムに呑み込まれる。
    歴史の教科書に載っている「管理・統制体制」「ハラスメント」「差別」の事件は,個人が組織のダイナミズムに呑み込まれる事件である。
    このダイナミズムを,いま「倫理・人権」科目に目撃しているわけである。事件としてはごく小さいものであるが,構造を見て取ることは容易い。

    「倫理・人権」科目は,「倫理・人権」において自家撞着をやるものになる。学生を含め「倫理・人権」科目に関わる者は,本来,この自家撞着をこそ,興味深く見てとることになる者である。

    自家撞着は,構造である。「のりこえる」を考えるものではない。 実際,「のりこえる」をやることは,「倫理・人権」科目自体をやめてしまうことである。 いまの大学にこの科目をやめるという選択肢はない。

    自家撞着に対する構えは,<余裕>である。
    <余裕>は,<不真面目>のことである。
    実際,自家撞着を先鋭化し,ひとにとって耐え難い体制づくりへと進ませるものは,つねに<生真面目>の方である。