Up おわりに 作成: 2013-12-15
更新: 2013-12-15


    「指導」は,悪い手法ではない。
    強調しておくが,大学の智恵がつくった,よい手法である。

    「指導」の問題は,これを用いる人間の問題である。
    即ち,心得違いをして「指導」を行えば,「指導」はひどい理不尽を行うものになる。

    実際,「指導」が成り立つには,「指導」する側とされる側の両方が十分賢いことが条件になる。
    「賢い」の内容は,とりわけ法と人権に関する知識である。
    この知識が両方に欠けるとき,「指導」は<脅迫>と<卑屈>の場になる。
    本論考は,このことを論じようとした。

    本論考は,いわば,わたしの独り倫理人権科目である。
    大学が運営する倫理人権科目は,「あなたたちは,世の悪に対し,善の者・正義の者となってこれを斥けよ」調に流れるきらいがある ( 『全学一斉「人権・倫理」科目とは?』)。
    これに対し,本論考は (<善悪>ではなく) <知>を主調にしている:
    1. 学生に対しては
      あなたは,組織の中で失敗する。
      この失敗に対し,「指導」が入る。
      「指導」側は,「指導」のシナリオを独善的・自己満足的に描く。
      そして,このシナリオの実現に,あなたを従わせようとする。
      シナリオの完遂を絶対善にしているから,あなたを服従させるための手法はすべて合理化される。
      即ち,嘘や脅迫が用いられる:
        重い処分を求める声がある
        わたしは,処分は考えていない
        わたしの言うとおりにするのが,最善である
      あなたは,法や人権の知識が無いので,この「指導」の没論理や理不尽がわからない。
      「指導」側の気分を損なったり言うとおりにしなかったら最悪がまっている,という思いにとらわれ,すっかり怯えてしまう。
      そして,卑屈に振る舞い,しなくてよい譲歩をしてしまう。
      これはすべて,法や人権に関するあなたの知識の無さによるのである。
      法や人権の知識は,自分を助けるものである。 理不尽に対抗する武装である。 だから,これを身につけることに努めなさい。
      失敗を反省することと,「指導」に対し卑屈になることは,違う。
      「指導」では,堂々としていればよい。
      「指導」側はあなたの「堂々」を「居直り」と見るかも知れないが,そんなことを気にすることが既に「卑屈」なのである。
      やってしまったことについては,潔くあれ」──これが「指導」を受けるときの要諦である。

    2. 教員に対しては
      あなたが「指導」を担当することになり,そして「指導」のシナリオを描くとき,そのシナリオは必ず間違っている。
      自分は信用できるものではない。
      研究論文をレフリーにかけるように,自分のつくったシナリオをレフリーにかけよ。
      最悪は,「指導」を独りでやってしまおうとすることである。
      「指導」は,行うに難しいプロセスである。
      つぎのように自問・自省せよ:
        自分は,平生の「学生指導」でナンボのものか?
        自分は,どの経験値を以て,この担当に相応しいというのだ?
      たいしたことのない・危なっかしい自分が見えてくる筈である。
      「指導」担当は,単に役目である。
      あなたが能力的に学生より優位にあるということではない。
      ここを勘違いしてはならない。
      教育実習生は,小学生になら教えられると思っている。 小学生より知識は上と思っているからである。 実際は,小学校教科の知識は小学生のときのままである。
      「指導」は,強面(こわもて) を使って相手をビビらせることではない。
      学生は,腐っても大学生であり,大人である。 ばかではない。
      学生は,<ふり>をしている。 従順・反省は,従順の<ふり>,反省の<ふり>である。
      そして,あなたがどんなタイプの人間であるかを,見ている。
      「指導」は,「反省文」を終着にしたロールプレイである。
      教育ではない。
      確かに,学生は「指導」でいろいろなことを学習する。 そのうちには,<「指導」の欺瞞性>というのもある。 《学生は「指導」でいろいろなことを学習する》は,「指導」が教育だったということではない。
      「指導」が教育ではないことは,特段強調されねばならない。 なぜなら,「指導」はこれを「教育」だとして臨むとき,必ず自分を優越した者に做し,そして独善による間違いをやってしまうことになるからである。