Up 国立大学の「法人化」=国立大学の破壊 作成: 2008-05-17
更新: 2008-05-17


    国立大学の「法人化」は,国立大学の「改革」である。
    「改革」の意味は,「従来型を改める」。
    しかし,従来型国立大学が国立大学であったのだから,論理・構造的に,「従来型を改める」は国立大学の「破壊」になる。


    国立大学は,最初は「法人化」に反対するものの,「法人化」の命が一旦降されると,「法人化」の優等生を懸命に競うようになる。
    「アメリカ流が正しい・従来型は劣等である」と謳うキャンペーンに感化され,自分に強い劣等感をもつようになる。 (もともと欧米コンプレックスが強くもたれているので,この感化・劣等感醸成は簡単に進行する。)
    そしてこの劣等感が裏返って,「改革」のことばに過剰反応していく。 すなわち,従来型をどんどんつぶしアメリカ流に変えていく,ということをやる。



    これは,精神構造が明治の「文明開化」と同じである。
    自分の文化を「未開」であると思い,強く恥じ,西洋文明をとりいれることを「文明開化」とする。
    こうして,AO入試だ,CAP制だ,オフィスアワーだ,大学基金だ,コア科目だ,と「文明開化」の浮かれ騒ぎに嵌っていく。

    そして,「改革」のことばに過剰反応して「破壊」をやるということでは,明治の「廃仏毀釈」と同じである。 ( ひとは「改革」に破壊の過剰反応をする)


    北海道教育大学札幌校は,このような「国立大学の改革=破壊」を見事に果たしている国立大学の一つである。 ──例えば「成果」の一つとして:

      教科教育を柱に学校教員養成課程を立てるこれまでの形を全否定し,コアカリキュラム・総合学習・実践演習主義を課程に応用したような体系横断 (体系バラバラ) の課程に改める,ということを断行。 (『教員養成課程が<反-教科専門>になるとき』)