Up 「共同」は,自家撞着する 作成: 2014-12-24
更新: 2014-12-24


    「共同」を成り立たせることは,社会の現システムを根底からひっくり返すことである。
    これがどのようにひっくり返すことであり,どのような顛末になるものかは,いろいろな歴史的事件に見ていくことができる。

    また,社会的生物の「社会的」はどうかと見れば,それは「差別的」である。
    「社会的」は,「差別的」で落ち着くということである。
    「共同」を成り立たせることは,この自然を根底からひっくり返すことである。

    「共同」は,成り立たない。
    このことを以て,「共同」は自家撞着である。


    「共同」の考えはどうして出てくるのか?
    局所思考をしているからである。
    「共同」の考えは,思考領域を少し拡げれば,たちまち自家撞着を現す。
    「共同」を説く者は,局所思考から出ない。
    <自家撞着に都合よく思考停止して済ませるカラダ (癖)>をつくってきている,ということである。


    「人権」の授業は,局所思考による自家撞着の論を聴かされるものになっている。
    「倫理・人権」科目に対し受講生が感じる「ウザイ」には,「倫理」の授業と「人権」の授業のそれぞれにあって,その内容は自ずと異なる。 そして,《「差別」「共同」の自家撞着の論を聴かされる》が,「人権」の授業の場合の「ウザイ」である。


    「自家撞着」の例:
    1. 「性差別」
    「性差別」は,たちどころに自家撞着する。
    世の中には「○性専用」のものがいろいろあるが,これに対し「性差別!」のクレームが現れるとき,「性差別」は自家撞着する。
    「雇用の性差別」は,「業種」や「企業の経営状態」を個別に考えるやいなや,自家撞着する。
    「女性差別」は,「専業主婦」や「出産・育児」を主題にするやいなや,自家撞着する。

    2. ご都合主義
    「差別」を,他人がやる分には攻撃するが,自分がやる分には許す。
    「反差別」の行動を,他人がやっていない分には攻撃するが,自分がやっていない分には許す。
    これが,「自家撞着」のもっとも明らかな形である。