Up 「思想弾圧・恐怖政治」 作成: 2008-05-27
更新: 2008-05-27


    「臨界 (critical)」という概念がある。
    ある一線を越えると,いままで概して不活性だった要素に活性化の連鎖反応が起こり,系が雪崩的に動く。 この一線の前と後を,それぞれ「未臨界」「超臨界」と謂う。

    「法人化」の国立大学は,「検閲」の開始によって,組織が「思想弾圧・恐怖政治」に雪崩れる臨界に立つ。 これ以降,組織は「思想弾圧・恐怖政治」の自動運動の相に入っていく。


    一般に,「思想弾圧・恐怖政治」は暴君の狂気が発動するのではない。
    きれい好きの官僚組織が,これの主体である。
    彼らは,バイ菌駆除の趣きで,組織の散らかっている状態を正す

    きれい好き体質は,上からの指示に過剰反応する。
    執行部から「汚れがあるぞ」のことばが降ってくると,徹底調査を始める。
    汚れ発見の単調な作業を黙々と行い,汚れの完全リストを作成し,執行部に上げる。
    執行部は,彼らのこの見事な仕事を粗末にはできないという雰囲気になる。 そして,汚れリストに載せられたものの掃除の指示を返す。
    この指示に,<きれい好き>が再び過剰反応して,対象を完全粛正する。

      ちなみに,政治は官僚が実権を握る宿命にあるが,それは官僚組織の<きれい好き>の賜である。

    過剰反応は,過剰反応の連鎖反応に進む。
    過剰が過剰を呼ぶのである。
    こうして,少しの芥も許し難い精神構造になる。
    「思想弾圧・恐怖政治」の官僚組織の精神構造は,これである。


    「思想弾圧・恐怖政治」は,極悪非道の貌の者が行うのではなく,賢げな貌の<きれい好き>が行う。 よって,かえって薄気味度が増す。
    「法人化」の国立大学では,「大学執行部は何をやり出すか分からない・何でもやる」の恐怖感覚の醸成が着実に進行する。

    この恐怖醸成は,大学執行部にとって都合のよいことか?
    執行部教職員が「恐怖は,明日は我が身」の感覚を持てるかどうかは,「思想弾圧・恐怖政治」に対する組織の傾向性の一つの要素になる。