Up 検閲に対する無為・傍観がアタリマエに 作成: 2008-05-24
更新: 2008-05-24


    強権体制は,一旦つくられるや,独り歩きする。
    それは,強権に対する無為・傍観がアタリマエになる現象である。

    「強権に対する無為・傍観」に対する研究的立場は,これを人間の本性/本質と考えるというものである。 単純に否定的にこれを主題化するのは,学術的でない。

    強権に対する無為・傍観は,つぎのことと似ている:
      ひとは,いま住んでいるところに地震が来ることがわかっていても,
      住み続け,しかも特に対策しない。

    要するに,人間は,破局に対策するようにはできてはおらず,破局に際して後悔するようにできている:

    Als die Nazis die Kommunisten holten,
    habe ich geschwiegen;
    ich war ja kein Kommunist.
      ナチに共産主義者が逮捕されたとき
    わたしは傍観者でいた
    共産主義者でないので
    Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,
    habe ich geschwiegen;
    ich war ja kein Sozialdemokrat.
      社会主義者が逮捕されたときも
    傍観者でいた
    社会主義者でないので
    Als sie die Gewerkschafter holten,
    habe ich nicht protestiert;
    ich war ja kein Gewerkschafter.
      労働組合員が逮捕されたときも
    傍観者でいた
    労働組合員でないので
    Als sie die Juden holten,
    habe ich nicht protestiert;
    ich war ja kein Jude.
      ユダヤ人が逮捕されたときも
    傍観者でいた
    ユダヤ人でないので
    Als sie mich holten,
    gab es keinen mehr, der protestierte.
      私が逮捕されるとき
    プロテストはもう
    この世になくなっていた
    (Martin Niemöller)    (訳:筆者)   


    大学執行部が,勝手に学長任期を延ばしたとき
    傍観者でいた
    自分がこれでどうなるわけでなかったので

    勝手な教授任用をやり出したときも
    傍観者でいた
    自分の講座の関係ではなかったので

    計算の合わない大学基金ををやり出したときも
    傍観者でいた
    自分は金を出さない,で済んだので

    検閲をやり出したときも
    傍観者でいた
    自分に及ぶものではなかったので

    統制が自分の人格のことに及んできたとき
    プロテストはもう
    学内には無くなっていた