Up 要 旨 作成: 2008-05-22
更新: 2008-05-22


    国立大学の「法人化」が孕む問題の一つに,「言論統制」がある。
    これについては,本論考とは別のところで,これまでしばしば論じてきた。

    この度,本論考を置いているウェブサイト justice に対する「削除」の動きが伝えられてきた。 「削除」の内容は現在不明であるが,この事態を読み解くべく改めて「言論統制」を論考する必要が出てきた。


    国立大学も,言論統制が起こる場の例外ではない。
    しかも国立大学の場合,教職員の言論統制を進める者・これに加担する者は,同じ教職員である。

    言論統制はなぜ起こるのか?
    個の多様性を顕す資質のうちに,言論統制の傾向性みたいなものがあるのか?
    それとも,言論統制は独り歩きするようなものなのか?

    言論統制には,矛盾・葛藤・アンビバレンスの構造がある。
    ひとは言論統制を,よそのところの出来事なら眉をひそめ嫌悪するが,自分が行う分には許す (これを正しいとする合理化を行う)。

    これは,言論統制に限らない。
    一般に,ひとは,よそのところの出来事なら眉をひそめ嫌悪するものも,自分が行う分には許す (これを正しいとする合理化を行う)。
    ここに「言論統制」を理解するための一つのヒントがある。
    このメカニズムがとらえられねばならない。