Up | 「権力」に恐怖する──権力幻想 | 作成: 2007-09-09 更新: 2007-09-09 |
「恐怖の対象から自分たちを守る」が「恐怖の対象を怒らせない」であるとき,全体主義は,「<恐怖の対象に好まれる者>をみんなでプレイする」になる。 このとき,<恐怖の対象に好まれる者>をプレイしない異形が自分たちの中にいれば,それが恐怖の対象の目にとまり,恐怖の対象の怒りが組織全体に向けられる,ということになる。 そこで,この全体主義は,内に向けては「異形狩り」になる。 「異形狩り」は,集団ヒステリーになる。 この事例は,歴史の中にいろいろ見出すことができる。 また,為政者は,統治の容易化のために,「恐怖」を利用できる。 この事例も,歴史の中にいろいろ見出すことができる。 国立大学の法人化で,国立大学は「大学評価」を行う行政の役人を恐怖の対象にするようになった。 政府ではなく,役人である。 なぜ役人か? 国立大学にとって,顔が見えない・得体が知れない存在だからだ。 顔が見えない・得体が知れないことが,「恐怖」の対象の条件である。 国立大学は,大学評価を行う役人につぎのようなイメージをもっている:
彼らの基準に沿わないものには,罰を科す。 彼らには,国立大学の理念・哲学を言っても通じない。彼らは別人種である。 これは<幻想>である。 ただし,理由なくこの<幻想>ができるわけでもない。 役人の中にも,この<幻想>を強化し利用しようとするタイプの者が,いるのかも知れない。 |