Up 「異形狩りの集団狂気」の構造 作成: 2007-09-07
更新: 2007-09-08


    法人化の国立大学は,<「大学評価」のためにする>ことをいろいろ行う。 そしてそれを,全体主義で進める。
    全体主義のやり方については,「それはやってはならないことだ」をいろいろ論じても詮無しというところがある。 というのも,それは集団心理のやっていることであるからだ:

      自分のやっている異常なことを異常なことと意識しない
      心的状態に,集団で陥っている。

    全体主義の集団心理は,「異形狩りの集団狂気」である。


    「異形狩りの集団狂気」は,事例に事欠かない。
    これは,つぎの構造をもつ:

      恐怖の対象がある。
      これの怒りを買わない行動を皆が一緒にとらねばならない,と考える。
      この全員一致行動に入ってこない者 (異形の者) がいる。
      恐怖の対象の目にはいる前にこれを始末しようということで,異形狩りをする。

    自分のたちの異常行動を異常と意識しない。
    ゆえに「集団狂気」である。

    上気がやがて収まり,自ら手を貸してきた異常の数々が見えるようになる。
    そして「なんであんなことをやったんだろう」と不思議がり,また自分を恥じる。


    歴史を勉強するのは,こういう人間行動パターンがわかるためだ。 これがわかっていれば,つぎのように考えられるようになる:

      ああそうか,あれと同じことがいま起こっているのだ。
       同じ愚を犯してはならない。


    翻って,「集団狂気」には,つぎのような考え方をすることが含まれる:

      これは,歴史に類型を求めるようなことではない。
       これは,特別なことなのだ。

    ひとはいつもこれをやる。
    そして,何年か経ち熱気が失せたところで,「なんであんなことをやったんだろう」になる。


    ちなみに,異形は必ず現れる。
    自由主義は,これを指して「個の多様性」と謂う。 「個の多様性」を原理とする自由主義は,異形の存在を当然のものとする。
    これに対し,異形 (自分と異なる形) を劣ったものと見なしこれを無くすべしとするイデオロギーも,ある。 ──実際には,こちらの方がありふれている。 (ゆえに自由主義社会の学校教育では,「個の多様性」から教えていく。)