Up 「革新」──「法人化」の本質 作成: 2007-08-17
更新: 2007-08-17


    国立大学の「法人化」は,組織の「革新」である。
    「法人化」を理解しようとすれば,それは「革新」の理解へ進まねばならない。
    以下「革新」の構造を簡単に押さえておく。


    「革新」は,組織が<生き残り>を自分の状況とするようになったところで発生する。
    実際,「革新」とは「組織生き残りのための組織革新」の謂いである。


    「革新」は,既存の破壊に進む。
    既存の破壊に進むのは,人が愚昧だからである。

    人は,<状況>の複雑さを捉えられない。
    特に,既存 (これは<状況>の要素である) の複雑さを捉えられない。
    そして,状況の困難や矛盾の理由を,「既存=悪者」にする。

    このとき,「既存=悪者」論者と「既存=悪者」論好きのメディアが,「既存=悪者」の受けとめ方・見方・考え方を正当化し,リードし,強化する。このことを,「既存=悪者」のイデオロギーの醸成・構築という形で行う。

    「既存=悪者」のイデオロギーに嵌った者は,「悪者退治」として既存破壊に進む。

      悪者にされるのは,いまの状況をリードしていると見なされる者や,慣習・文化。
      悪者退治として,知識人の抹殺,要人に対するテロが起こる。。
      このときの「悪者」の意味が一貫するものでないことは,例えば様々な「仏像破壊」を見ればよい──明治維新期の「廃仏毀釈」,中国の「文化大革命」,アルカイダのバーミアン遺跡破壊。


    悪者退治は善である。
    善を行わない者は,悪である。
    そこで,悪者退治は,悪者退治に参加しない者の退治へと進む。
    抹殺やテロの対象が,一般者の中に拡がっていく。

    「既存=悪者」のイデオロギーを持つ者が組織のトップを取り,悪者退治を行うとき,この体制は「全体主義」になる。
    悪者退治は善である。したがって「総動員」で行われて然るべきものである。
    この総動員に違反する者は,悪であり,処分されて然るべき者である。
    特に,全体主義の組織は自ずと「粛清」の組織になる。

    粛清は,トップへの絶対服従を導く。
    こうして,全体主義の組織は,トップ絶対,トップ独裁の組織になる。


    「既存=悪者」のイデオロギーは,愚昧なアタマに宿る。
    よって,組織が全体主義であり,トップ絶対であるということは,そのトップが愚昧であることを含意している。実際,まじめに愚かなことをやる。
    また,人はだれでも愚昧であるから,寡頭で閉鎖主義をやれば,だれでもおかしな方向に進んでしまう。

    一方,トップダウンのダウンの側では,逃避行動として「宿題達成の雑務への没入」が起こる。
    また,「追認」にアタマ・カラダがすっかり適用し,追認という生き方がすべてになる。

    こういうわけで,全体主義の組織はつぎのようになる:

      状況を見通す能力をもたないトップが,
      出たとこ勝負の施策をつくり,
      これのトップダウンで組織をぐちゃぐちゃにしていく。


    死屍累々をつくり組織を崩壊に導くこの体制には,しかし,失敗責任が存在しない。
    担当は交替する。
    そして,失敗のプロセスの中で異を唱える者は誰もいない。
    だれも悪くはなく,そしてだれもが悪い。


     註 : ここで示した「革新」の格好の例が,さきの戦争である。