Up 「権力の手先」の力学 作成: 2007-09-27
更新: 2007-09-27


    「法人化」の国立大学では,施策はつぎのように決まる:
      執行部でつくられた施策が教員に示され,
      教員はこれを了承する。

    制度的には「教員の了承」は必要ないのだが,これをしないと「自分らで勝手にやってろ!」になってしまうので,実際上「教員の了承」は必要ステップになる。


    「法人化」の施策は「改革」施策であり,そして「改革」の内容は,「国立大学は,競争主義とグローバリズムを本位とする営利企業を手本にする」である。

    この「改革」は政府のつくった有識者会議の主導という形になっている/いたが,その有識者は「国立大学」に関しては素人である。
    当然ながら,国立大学教員の多くは,このような「改革」を信じない。

      ちなみに,「改革」の側につく教員はどのような者かというと,自分を他の教員からつぎのように差別化しようとするタイプの者である:
       「自分は,危機意識を正しく持つことのできる者である。


    執行部は,自分たちのつくる「改革」施策を「トップダウン」で通すが,このとき
      「改革」を信じる執行部が,
      「改革」を信じない教員に,
      「改革」を無理矢理飲ませる
    の絵にならないように,つぎのことを実現する装置 (「委員会」等) を間に挿む:
      「改革」を信じない教員が,
      「改革」を信じない教員に,
      「改革」を無理矢理飲ませる

    これにより,つぎの絵になる:
      教員自らが「改革」を選んだ。

    実際,委員になることは,「権力の手先」になることである:

      上から降りてきた施策に対し,個人が「これは断固潰すぞ」のつもりで論をつくろうとすると,すごくたいへんなことになる。 そして,「ひどく執念深い人間」を演じる形を余儀なくされる。
      そこで,「今回,それはできないなあ」となると,せいぜいアリバイづくり的に異論を少し述べて,妥協することになる。


    このように,「権力の手先」になるかどうかは,コストの問題である。
    コストをかけられない/かけたくないときに,「権力の手先」になる。

    執行部での施策づくりには,相当なコスト(人員と時間,あるいはさらに金)がかけられている。 したがって,これに対する異論も,低コストではできない。 異論をやるには,コストに対する十分な余裕がなければならない。
    これは,個人にとってたいへんな条件である。
    よって,施策を通過させる (「権力の手先」になる) 方を選ぶことになる。

    関連: オピニョン・システムの構築