Up | 大学評価制度の<成果>は,形式主義/本末転倒 | 作成: 2007-01-11 更新: 2007-01-11 |
物事には数値化できないものがある。デジタル化できないものがある。 ──これはわかるだろう。 では,つぎのことはわかるだろうか?
大学教育の評価は,項目評価にはできない。 項目評価できないものを無理矢理項目評価しようとするとどうなるか? むりやり項目をつくり,めちゃくちゃなことを「評価」だと言いくるめる。 「このところは是非評価したいから,これの評価制度を導入しよう」というのではない。 つくった評価項目の中身を埋めなければならないから,評価をつくる。 そんな評価だから,とうぜん「虚偽」であり噴飯ものになる。
これの後に,「優秀の評価をどうしようか?」と考える。 「この学生はこんなに優れている,この手の学生を評価してやらないと不公平だ,よってこの評価を実現する制度を導入しよう」ではなく,「評価制度を導入しなければならない,さて何をもって優れているとしたらいいだろう?」なのだ。──本末転倒。 この本末転倒が噴飯ものであることは,「大学院入試高得点者に対する授業料免除のご褒美」のところで,いやでもはっきりする。──「高得点は教科に依存する。ではどうする? 面接得点ではどうだろう?」の話に堕する。大学人の知力を考えるとウソみたいだが,このようなことが現実に起こる。 そして,「虚偽」と承知しながら,みながこれに付き合う。 これを「裸の王様」構造という。 王様の裸が見えているのに,「王様の着物はすばらしい !」と讃えるわけだ。 これが大学の破壊になるということが,わかるだろうか? 何がこの破壊の深刻なところかというと,起こっているのがつぎのことであるからだ:「人品が卑しくなる」。 中国の「正史」の言い方に倣えば,「徳が衰える」が組織において起こる。 ちなみに,官製の大学評価制度に国立大学が対策する場合,項目を横並びでそろえるのが安全なやり方になる。──形式主義。 どこかの大学がある項目をつくったら,それを自分の項目リストに加える。 こうして項目は,増えることはあっても減ることはない。 |