Up | <能力陶冶>をわかってない ──「多様な人材の養成」の錯認 | 作成: 2007-01-26 更新: 2007-01-26 |
いにしえの達人は,いまの時代でも達人になる──新しい環境・生活・技術に適応するのは造作ない。 能力は,時代や環境から独立している部分が大きい。 異なる時代や異なる環境に通底している構造がある。 この構造をとらえることのできるものは,時代や環境が変わってもそこで通用する。 この構造をとらえる能力が,時代や環境から独立している部分である。 大学は,本来,この種の能力を研鑽 (研究)・陶冶 (教育) する場である。 だから,大学は古い。 古いことが,新しい。 ──古いから,新しさに対応できる。 古くてよい。古いことが価値だ。 このような言い方をすると頑迷な保守主義のように受け取られるだろうから,以下,この意味を説明する。 法人化の国立大学は,「21世紀の大学」を標榜して,プライス・ベースの会社経営を真似する。 「多様な人材の養成」を標榜して,流行りのことにいろいろ手を出す。 「国立大学法人評価」でこれが良しとされるので,これをやっている。 しかし,これらは,新しさへの対応にはならない。 このような大学がアウトプットする人材は,使いものにならない。 専門性ということを知らないものは,すべてのことに表層的にしか関われない。 「ジェネラリスト」は嘘である。 どの仕事も,それに真に就けば深い。すなわち,専門職である。 「ジェネラリスト」とは,専門を切り換える能力に長けた者のことに他ならない。 専門性を持った者同士は,専門の領域が違っても深いコミュニケーションができる。 これは,専門性そのものが,領域横断的に通底する構造であるからだ。 そしてこの構造は,専門性をつけるという形でしか得られない。 何をもって自分の専門性とするかは,基本的に,どうでもよい。 どうせ,一つの道を順調にいくことはない。 そして,専門性を志向している限りは,どの専門性も結果オーライになる。 ただし,確実性・効率性の意味から,良質な専門性,能力陶冶に適した専門性を選ぶに越した事はない。 大学は,このような専門性を提供する。 専門性を層 (レイヤー) の積み上げとして見るとき,深い層ほど領域横断的ということになる。 (逆に,浅い層ほど,領域依存的になる。) そして,最も深い層に,<論理>がある。 論理の教育は,むずかしい。 それは,論理が深い層/暗黙の層にあるからだ。 ──特にそれは,アタリマエとも通ずる。アタリマエを対象化し考えることは,構造的に難しい。 論理が身についていない者に,論理がおかしいことを理解させることはできない。 (論理がおかしいことの理解は,論理の理解と同じ。) 論理を意識せずに生活してきた者に,論理の意義・必要性を理解させることは難しい。 論理は,「論述を論理的に構成する」実践によって身に付く。 この実践の基本形は,人の論述を見る (読む) と自分で論述する (書く)。 ──これによって論理というものが体にある程度ついたところで,論述作法の学習,そして形式論理の学習に入っていく。 今日,論述のできない大学生が一般的になった。 それは,読む・書くが,学校や生活の中でひどく少なくなったからだ。
学校教員養成コースの学生の場合には,つぎのことを繰り返し強調せねばならなくなった:
授業を論理的なプロセスとして構成できるためには,授業する主題が理解できていなければならないこと 主題を未だ理解していないこと 主題を理解するためには,勉強しなければならないこと しかし,勉強も論理的構成の作業も身についていないので,一挙に授業案の体裁作り (てきとうに授業案の形をつくる) へ跳んでしまう。 大学は,<根本的なこと>が教育できれば成功である。 そして大学は,これに成功していない。 ところが法人化の国立大学は,<根本的なこと>の教育を閑却して,あるいはこれは済んでいるというような風で,流行を追い求める。 しかしその中にいる学生はといえば,「読み・書き」能力の劣った学生。 ──実際,「21世紀の大学」とは,「読み・書き」を教えることが歴史上最も重要課題になっている大学のことである。
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