Up 「右肩上がり」を強いられる 作成: 2006-09-28
更新: 2006-09-28


    新興IT企業は,決算で利益増を出すことが会社評価(株価)に直結する。 したがって,利益増の形を無理矢理つくる。そしてこれが高じて,「粉飾」をしたりするところも出てくる。

    「評価」には,「一定期間に何をどれだけ新しくつくったか?」── 一般に,「一定期間にどれだけ変わったか?」──というタイプのものがある。
    この評価ゲームに取り込まれると,「右肩上がり」を強いられるようになる。

    国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」は,このタイプの評価。


    一定期間に何をどれだけ新しくつくったか?」「一定期間にどれだけ変わったか?」は,あくまでも評価の一つの形である。 しかし困ったことに,「評価とはこのようなものである」と,大学自身が受け止めてしまった。 そして,「右肩上がり」を自らに課すようになった。

    「右肩上がり」は,早晩,息が切れる。──「バブルの崩壊」である。
    そしてその時,「右肩上がり」を自己目的化したことによって大事なものを壊してしまった現実に,向き合う。


    したがって,大学は,改めてつぎのこと──このきわめてアタリマエなこと──に気づくところから,やり始める必要がある:

      評価の形は「一定期間に何をどれだけ新しくつくったか?」「一定期間にどれだけ変わったか?」に限るのではない。

    これに気づくには,「文化の評価」「伝統芸の評価」のようなものを考えるとよい。
    これらは,レベル評価である。


    実際,国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」とこれに従おうとする大学のドタバタの根底には,
        「レベルの評価」と「変化度の評価」との区別不能
    がある。
    「大学評価」は変化度評価。これに対応する大学側は,変化度をコンスタントに示していかねばならない。それは,「右肩上がり」に変わること。

   

    いまは,「変化至上主義」の集団ヒステリー状態にある。 変わることが自己目的化され,その変わること一つ一つについて「それは果たしていいことなのかどうか?」と考えられることが無くなっている。
    「変わる」は「壊す」と表裏である。したがって,「変わる」については「これを壊していいのかどうか?」の問いが本来起こるべきなのだ。 ところがこれが起こらない。集団ヒステリーの所以である。

      1. 雑務をいろいろつくり出して,労働資源を分散させる。浅くて広い布陣をとって,本業を損なう。
      2. コアカリキュラム指向の課程編成を行い,実質指向を壊す。
      3. 入試方法を雑多 (「多様」) にするといった,費用対効果比の点で割のあわないこと (無駄/無用) をする。
      4. センター試験成績優秀者に入学料を免除するといった「なりふりかまわず」モードに陥り,大学人のプライドを壊し,大学の品位・品格を落とす。