Up 官製競争主義=評価主義,評価の不可能,退廃 作成: 2007-04-14
更新: 2007-04-14


    国立大学に官が導入しようとしている「競争主義」は,官が「評価主義」で誘導・管理しようとする競争主義であり,この意味で「競争主義=評価主義」となる。


    <競争>は有利/得益追及型社会 (特に資本主義社会) の要因であり,これが社会の要因としてあること自体を「競争主義」とは言わない。
    一般に,「競争主義」は競争を不十分としてこれを管理的に興そうとするスタンスを謂う。 管理の方法は「評価」である。 よって「競争主義」は「競争主義=評価主義」となる。

    例えば,有名受験校の受験指導は,競争主義/評価主義に立つ。 生徒に試験を課し,成績一覧を示し,成績上位の競争を煽る。
    企業のセールス部署も,ふつう競争主義/評価主義に立つ。 売り上げ成績一覧を示し,成績による報酬格差をつくり,成績上位の競争を煽る。

    国立大学法人に導入しようとしている「競争主義」も,これと同じ。
    官 (大学法人評価委員会/文科省) が大学に課題を与え,大学は課題に対する「成果」報告を行う。 官は,成績による報酬格差を,「国立大学運営費交付金の配分格差」の形で実施する。


    官はつぎのように想う:
      これまで国立大学教員は,ぬるま湯に浸かり,しっかり仕事をしようとしなかった。 「成績によって差別化される」という競争的環境に叩き込むことで,せっせと仕事をするようになる。

    これの何が問題か?
    この<世界観>がどうしようもなく単純だということが,問題である。
    ただし,大学について素人の官が単純な問題の切り方をしてしまうことは,しようがない。 困ったことは,今日の国立大学人の傾向と言うべきなのだろうが,官に簡単にお付き合いしてしまうということ。すなわち,この単純な<世界観>をたしなめることのできる国立大学人は希有なのだ。

    大学の方からリアクションがないので,官は「これでいいのだ」と思ってしまう。
    そして実施へと進む

    ところが,大学に「成績評価」など馴染まない。
    馴染まないことを無理にやると,どういうことになる?
    大学には官から内容のない「成果」項目が示される。大学はこの「成果」の形づくりをする。 表紙は光沢仕上げの立派なものだがゴミ箱直行の「成果報告書」が,せっせとつくられる。 お互い八百長承知のこんなくだらないことに,大学側は時間・労力・金を注ぐ。

    人を競争主義/評価主義で上からコントロールしようとする目論見は,人を退廃に向かわせるだけの結果で終わる。
    人を退廃に向かわせるとはどういうことか?
    大学の実質的な仕事に関しては,評価者など存在し得ないのだ。 しかし,評価者が存在し得ないところに評価者を立てるということをやる。
    そんな評価者に評価されようとしてよい仕事に意気込む者がいるとしたら,その者はよほどおかしい。 ふつうは,点数になることを「成果」として提出するだけのことだ。
    また,「自分はこんなふうには堕ちないぞ」と思う者は,はなから競争主義/評価主義に背を向ける。