Up 「なりふりかまわず」が習い性になる 作成: 2006-09-28
更新: 2006-09-28


    つぎのように考える大学人は,おそらくほとんどいない:

      よい大学になることと,国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」でよい点数がとれることは,一致する。

    むしろつぎのように感じる:

      点数取りのために実際に行っていることは,大学の王道に逆行する。


    実際,「大学評価」への大学の対応は,「背に腹は変えられない」「本意ではないが従う」で実現されている。

      註 : 本意ではないが従う」の裏には,「これは続かない。ブームに振り回されることなく,自分の本業を守っていこう。」という時局のとらえがある。


    背に腹は変えられない」からは,「なりふりかまわず」が出てくる。
    ──ものごとは「なりふりかまわず」の態で進み,そして「背に腹は変えられない」がこれの合理化の形になる。


    われわれの社会では,「背に腹は変えられない」は,自分の行動を正当化/合理化する形としてはひじょうに強いものと受け取られている。 実際,「背に腹は変えられない」を言うときは,相手が黙ることを見込んでいる。

    しかし,「背に腹は変えられない」のロジックの本当のところはどうなのか?
    つまらないようだが,「なりふりかまわず」の元凶が「背に腹は変えられない」の自己正当化/合理化である以上,これを押さえておこう。


    背に腹は変えられない」は,
      状況は,道理/法の通じない強迫事態である
    と主張するものだ。特に,
      道理/法の埒外ないのだから,道理/法で以て諭そうなどとはするな!
    となる。
    このときの強迫事態は,評価/競争である。よって,つぎのようになる:
      評価/競争で「不良者」ということになれば,一巻の終わり。
       評価/競争が定めるところの「合格者」の体裁をつくらねばならない。
       「合格者」の体裁づくりは不本意であるが,これをするしかない。

    このロジックの根幹は,強迫事態の絶対視である。


    国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」に対応しようとする大学の場合,この絶対視は,国立大学評価委員会/文科省という機関と「大学評価」の枠組みに対する絶対視である。 これらを,
      「歴史の時間軸において揺らぐもの (時間が経てばまた変わるもの)」
    というように批判的に見ることができない。

    国立大学は,概して,権力構造で世界認識するタイプのイデオロギーが優勢なところであった。 権力批判は悪者論の形をとる。
    悪者論は,「悪はつねに悪」というわけなので,権力絶対視に裏返る。 よって,トップダウンがやってきたときには,「権力に虐げられた存在」を演じることを選ぶ。 本来ならトップダウンの内容の批判的考察へと進むところだが,これをしない。 「権力がやることなので,仕方がない」の言い草になる。 自虐趣味が体質になっているのだ。


    国立大学において「背に腹は変えられない」事態はあり得ない。
    背に腹は変えられない」を言う大学人は,大学人としての自らの資質を問い直す必要がある。