Up 「生き残る」のリアリティ 作成: 2007-05-24
更新: 2007-05-25


    国立大学に関して「生き残る」のことばが使われるとき,そこにはリアリティが抜けている。 ──リアリティが抜けていることに気づいていないかのように,このことばが使われる。

    実際,「生き残る」のことばは,リアリティを示さないことによってむしろ機能する。 リアリティを示すことは,生き残り行動を促すという目的にはそわない。


    「生き残る」は,つぎのように示される:

      ゴミ焼却炉に向かって動くベルトコンベアの上に,あなた方はいる。
      立ち止まると,ゴミとして焼かれてしまう。
      逆走することが「生き残る」だ。

    ここで「ベルトコンベアの速度」というリアリティに言及したら,生き残り行動を促すことに失敗する。 それの途方もなさが,相手に計算されてしまうからだ。


    今月21日 (2007-05-21), 財務省財政制度等審議会において国立大学への運営費交付金再配分試算が示された。そしてこれが新聞で報道された。(財務省 財政制度等審議会 文教予算資料 (2007-05-21))
    その試算は,「経済主義に立った国立大学運営」がどのような姿になるかを示している:

2006年度科研費配分割合により運営費交付金を算定[増減割合]
(画像クリックで拡大表示)


下位は,教員養成系大学が占める:


    このデータは,生き残り主義の大学執行部につぎのことを気づかせる効果がある:

    • 「生き残り主義で生き残る」とは,経済主義による評価を受容した上で,この評価数値の挽回を実現することである。

    • 「生き残り主義で生き残る」を言うとは,併せてつぎに答えることである:
        自校をプラスグループに転じることとして,これまで何にとり組んできており,またこれから何に取り組むつもりでいるか?
      「それらをすればプラスグループに転じる」という想いをもてるようになったのは,どうしてか?
      さらに,プラスグループに転じる時間スケジュールは?

    気づけば,彼らにも,これがとんでもない課題 (ナンセンスな課題) であることがわかってくる。