Up 「糧の争奪戦に生き残る」を真に受ける時代性 作成: 2006-09-14
更新: 2006-09-14


    いまは,「糧の争奪戦に生き残る」の意味の「競争に生き残る」が,「生きる」の在り方として真に受けられる時代である。
    しかし,この現象に見られる精神構造は,特異なものであって,普遍的ではまったくない。このことは,歴史や異文化の国・地域を眺めればすぐにわかる。

    「糧の争奪戦に生き残る」が「生きる」の在り方になる構造を,改めて考えるとしよう。


    「糧を得る」については,つぎの2つのモデルが立つ:
      有限モデル (糧が有限)
      無限モデル (糧が無限)

    無限モデルは,「糧は取りに行く分だけ取れる」というモデルで,「大航海時代」「新大陸開拓」「情報化社会の始まり」などがこの例になる。しかし,もともと糧は有限であるから,取りに行く者が増えることによって,無限モデルは終焉する。つまり,有限モデルになる。

    有限モデルでは,つぎの2つの下位モデルが立つ:
      争奪モデル (個々が競ってより多く取ろうとする)
      分限モデル (個々が,全体への行き渡りを損なわないよう,自分のそこそこ必要量を取る)

    争奪モデルは,無限モデルが末期になって迎える有限モデルと見ることができる。 実際,争奪モデルが不可能になると,分限モデルに収束していく。
有限モデル 分限モデル
争奪モデル
無限モデル
   

    以上の構造的見方では,一見すべてが分限モデルに収束して終わってしまうように見えるが,実際はそうはならない。すなわち,無限モデルが時々に現れ,新しいサイクルを創造する (「○○兆円規模の新しい市場!」)。


    争奪モデルは糧の争奪戦が不可能となった時点で分限モデルに転ずるが,この「不可能となった時点」というのが問題になる。
    「不可能」は合理精神で判断されるのではない。糧の争奪戦は,たいてい,惰性で「破壊」局面まで突き進む。よって,争奪モデルが「不可能となった時点」は,「破壊が尽くされた時点」とイコールになる。


    争奪モデルでは,合理精神の著しい喪失,特に,あからさまな自傷/自殺行為が起こる。
    若干内容がずれるが,これの好例に「資源・環境破壊」がある。

      例えば,アメリカ西部の大農法は,千年単位の時間の長さをもって蓄積された地下水を 10年単位の時間の長さをもって消費するということをやっている。自殺行為であることを理解するには,小学校の四則計算ができればよい。 実際,毎年地下水の水位が下がり,地下水がダメになった農地が荒れ地に変わっていく。しかしやめられない。 ──ちなみに,小麦や牛肉の消費者 (特に,これらの輸入国日本) がこの地下水の総括的消費者である。

    櫛を作物に水を落としている形にみるとき,櫛の片方を固定して櫛を回転させると円形の農地になる。櫛を垂直方向に平行移動すると,長方形の農地になる:


    (画像は,Google Earth から引用)

    争奪モデルでの資源・環境消費は,資源・環境の有限性の問題を先送りしている態である。そして,問題先送りの終点は,「破壊が尽くされる」
    この「資源・環境破壊の消費」に対するのは,資源・環境の消費を再生とペアにしてやりくりするというもの。 例えば,自給自足をベースとした生活は,(結果的に) このやりくりを実現するように形成されている。


    以上ずいぶんと雑駁な枠論をやってみたが,これの目的は,
      「生きる」の在り方として「糧の争奪戦に生き残る」が出てくる位相を押さえつつ,
      その行き着く先を理解しておこう
    ということである。

    註 : 本論考では,「糧の争奪戦に生き残る」を「品質や技術力の向上をもって社会的評価を高める」と厳格に区別しようとしている。「糧の争奪を戦って生き残る」は,本分/分限と関係のないところで起こり,また本分/分限の蔑ろ (→ 品質や技術力の低下) という自傷/自殺行為になるので,問題なのだ。──国立大学法人化の「大学破壊」は,これである。