Up 法人化から反照される国立大学の知性 作成: 2006-12-15
更新: 2006-12-15


    「国立大学法人化」に対する大学人のおおかたの印象は,つぎのものだ:

      実質の伴うはずのないものがトップのかけ声で現場に降りてきて,
      そのつまらないことに現場が翻弄され,
      大学にとって本来大事なこと (本分・文化) が台無しにされる。

    しかし,法人化の「あれもこれもみんなやらなくては」の空騒ぎ・ドタバタもまた,大学の知性の現れ。


    人類の進歩も固体成長も,ノン・カテゴリカル (カオス) がカテゴリカルになるプロセスとしてとらえることができる。 ──これは形/構造の見方が進化していくプロセスである。

      註1: 形/構造の見方で起こっていることは,「違うけど同じ」の見方。実際,「違う」を「同じ」にしているものが形/構造の見方である。そして「違う」を「同じ」にしていくことができるわけなので,これは進化。
      2: ことばは,このプロセスの現時点での到達点を示している。獲得されてきたいろいろな「違うけど同じ」が,ことば (概念) になっている。
      3: 「本質的な見方」と言っているものも,詰まるところ形/構造の見方に他ならない。

    このプロセスは,同時に「思考がファンダメンタルになっていくプロセス」。 そしてこのファンダメンタルは,シンプルに通じる。
    文明や固体の発達の度合いは,(各種アプリケーションがその上にのるところの) 方法としてのファンダメンタル/シンプルの発達度合である:

    ファンダメンタル/シンプルは,成長がもたらすものである。
    したがって,「あれもこれもみんなやらなくては」の空騒ぎ・ドタバタを演じる<混乱した知性>は,落ち着きを取り戻すとか改心するとかで直るのではない。 混乱しているとは,単に知性が未熟であるということ。 未熟は,落ち着きとか改心によってではなく,<学習>によってのみ改善される。


    国立大学法人化では,空騒ぎ・ドタバタのアプリケーションに大学自身が飛びついた。 いまの国立大学は,突然空から落ちてきた異物体に大騒ぎして自分の生活を自ら破壊する原始人に似ている。 こうなってしまうのは,異物体に的確に対応できるためのファンダメンタリズムを持っていないため。

    ここで述べたことが,法人化の空騒ぎ・ドタバタに示されているものだ。 ──法人化は,大学の知性に関する深刻な問題 (「ファンダメンタル/ シンプルとなって現れるべき大学の知性が,まだひどく未熟な段階にある」) を思わず暴露した。