Up 大学執行部における哲学の貧困 作成: 2007-05-24
更新: 2007-05-24


    大学執行部は,「生き残る」ということばを,自分を正当化することばとして用いる。 すなわち,
      課題が<生き残る>であることを理解しており,
      生き残る方策を立てることができ,そして
      その方策を実現できる
    のは自分たちである,というふうに自分を見せようとする。

    彼らは,「<生き残る>という命題には誰も異を唱えられない」と思っているわけだ。 ──すなわち,彼らは,「<生き残る>という命題には誰も異を唱えられない」という考え方を受け入れ,使う者になっている。


    <生き残る>を普遍命題にする哲学 (世界観) は,一般的なものではない。
    実際,この哲学は,ひとが哲学を失うときに現れる。
    「ひとが哲学を失うとき」とは,ひとがあわてふためき,理性/知性を失うときのことである。

    <生き残る>の哲学は,人の在り様を「ゴミ焼却炉に向かって動くベルトコンベアの上を逆走する」のように見るというものだ。
    立ち止まると,ゴミとして焼かれてしまう。 ゴミとして焼かれないためには,つねに走りつづけていなければならない。
    ベルトコンベアは止まることがあるのか? ──止まることはない。

    <生き残る>の哲学は,<ばち>の哲学になる。
    ゴミとして焼かれるのは,つねに走りつづけることを辞めたばちである。 翻って,「つねに走りつづける」が道徳になる。
    「つねに走りつづける」を怠る不道徳な者は,ゴミとして焼かれる。

    <生き残る>の哲学は,現世を意味づけない。
    ベルトコンベアは止まらない。生は,あるとすれば,「あの世」にある。


    <生き残る>の哲学は,哲学としてはひどく低俗なものだ。
    ふつう哲学は,現世を意味づけることをテーマにする。<生き残る>ではなく<いまの生>を意味づけようとする。

    <生き残る>の哲学の低俗性は,この哲学の機能 (策略性) に理由がある。
    <いまの生>の意味づけが指向される文化は,<安定>の文化である。 <生き残る>の哲学は,この<安定>の文化の覆し・攪乱繚乱が計られるときに起こる。 この哲学の低俗性は,<安定>の文化の覆し・攪乱繚乱が機能であるということの含意である。

    実際,この哲学を今日用いているのは,既存枠を邪魔とし,「規制緩和」「グローバリズム」で既存枠の破壊・再編を企図する経済界の「改革」派やベンチャー派である。


    この哲学が,国立大学の中に「法人化」で入ってきた。
    「法人化」の中でスローガンに現れてきた「カリキュラム再編」「産学協同」「地域連携」なども,「規制緩和」「グローバリズム」と同じく,本質的なところでは,既存枠破壊 (「<安定>の文化の覆し・攪乱繚乱」) を機能としているものである。

    <生き残る>の哲学ににべもなくやられてしまった者たちが,大学執行部を構成した。しかし,学術の専門の場である国立大学において,かくも低俗な哲学がなぜすんなりと受け入れられてしまったのか?
    理由にいろいろあってもはっきり言えるのは,「確固とした哲学がもたれていれば,低俗な哲学に簡単にとって替わられることはない」ということだ。 ──対偶をとれば,「大学執行部における哲学の貧困」ということになる。

      註 : 命題「AならばB」に対し,「(not B) ならば (not A)」をこれの対偶という。 ──二つの命題は同値(特に,真の命題の対偶は真)。